【オールスポーツ】ゴルフ=クラウンズ中止に思う 杉原輝雄からの伝言

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(写真:photoAC)※写真はイメージ
“世界のスギハラ”も悲しんでいるに違いない。4月30日の開幕を予定していたゴルフの国内男子ツアー「中日クラウンズ」(愛知・名古屋GC和合コース)が、新型コロナウイルス感染拡大を受け、史上初の中止となった。代替開催の予定はない。2019年大会が第60回という伝統の大会で、ちょうど10年前にはある世界記録が誕生した。スポーツイベントが開催できない不安定な社会情勢の今だからこそ、大記録に込められたレジェンドのメッセージを紹介する。
 

 


2010年に51回連続出場の世界新記録

大会の数だけドラマがあった。2010年4月29日。51回目を迎えた「中日クラウンズ」で、第1回から出場を続けていた当時72歳の杉原輝雄が、51年連続出場を達成した。同一大会の連続出場としては、アーノルド・パーマー(米国)が持つ「マスターズ」の50年連続を超える世界新記録となった。

「中日クラウンズといえば、当時は一番大きな試合。プロなら誰もが目標にした。参加できるだけで本当にありがたかったですよ」

初代王者を破ってクラウンズ初優勝

クラウンズの半世紀とともに杉原もプロゴルファーとしての歴史を刻んできた。第1回から出場を続け、記念すべき優勝は第5回大会(1964年)。初日は7位とやや出遅れたものの、後半から調子を上げてトップグループ入り。最終的には中村寅吉に1打差をつけて優勝した。

初代王者でもあった中村は、杉原にとって雲の上の存在。研修生時代に、所属していた茨木カンツリー倶楽部で開催された試合で中村のキャディーを務めたことがあった。「プレーがきびきびと速く、勝負に対しての執着心を持っている。それでいて、明るく楽しいゴルファーというのが印象的だった」と杉原。そんなプロの大先輩に勝ったからこそ、クラウンズ優勝の喜びはひとしおだった。

青木功に負けた悔しさは生涯忘れず

一方で、悔しい思いも味わった。第16回大会(75年)は最終日の16番まで首位。ところが、2位の青木功に17番で並ばれ、最終18番でまさかの逆転負けを喫した。「楽勝で勝たなければいけない試合。悔しさはあった」。この時の屈辱は、何年たっても忘れることはなかった。

連続出場は応援してくれている人のため

出場を積み重ねていくにつれ、杉原とクラウンズの関係はファンの間でも定着した。毎年、遠方から訪ねてくれる顔なじみができ、周囲の期待に応えようと、杉原もより照準を合わせて調整した。最大の危機に見舞われたのは、第40回大会を控えていた99年春。腰痛を発症し、出場か否かで直前まで悩んだ。

必死の治療で強行出場したものの、とても競技ができる状態ではない。結局、初日ハーフを終えたところで無念の途中棄権。その後の試合もしばらく欠場を余儀なくされた。それでもスタートに踏み切ったのは「関係者に『出てもらいたい』と言っていただけたことと、ファンに喜んでいただけるのであれば」という思い。いつの時代も一途な感謝の気持ちが杉原の背中を押した。

感謝の気持ちこそがすべて

「『勝てばいい』『稼げばいい』だけではいけない。試合で活躍する場をつくってもらっていることに、プロはもっと感謝しないと。最近は前夜祭に出ない、あいさつもできないような選手がいる。これではスポンサーも撤退してしまうし、ゴルフはいくらでも衰退すると思う。自分は試合が少ない時代から出させていただいて、多くの人に応援していただいた。こんなにありがたいことはないですよ」

だからこそ、自分は大会が続く限り、出場を続けるのだと言った。そんな杉原だが、98年に前立腺がんであることを公表し、闘病しながらゴルフを続けていた。第52回大会は体調悪化のため、出場を断念。それでも復帰を目指してトレーニングを続けていたとされるが、生涯現役のまま、2011年12月28日に大阪府内の自宅で亡くなった。

杉原が生前に残した言葉は10年も前のものだが、試合がまったくできなくなった今こそ選手たちの胸に響くのではないか。当たり前だと思っていたことが普通にできることへの感謝。いつかはコロナ騒動が終わることを信じて心に刻みたい。(砂田 友美) 


杉原輝雄(すぎはら・てるお) 1937(昭和12)年6月14日、大阪府生まれ。茨木中卒業後は定時制高に通いながら茨木CCの研修生に。57年プロ合格。初競技は58年関西オープン。62年日本オープンで初優勝、以降90年大京オープンまで国内外通算57勝、シニア6勝。89年に永久シード権を獲得、生涯獲得賞金は6億3318万8689円。162センチと小柄ながらも粘り強いプレーから「マムシ」と呼ばれた。2011年12月28日に前立腺がんのため74歳で死去。