いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。
バタフライ唯一の日本人金メダリスト
ニックネームは「女金時」や「金太郎ちゃん」。現代的にはちょっといただけないネーミングだが、当時の日本人女性にしては大柄でがっしりとした体格だった19歳の青木まゆみは、こう呼ばれて国民に親しまれた。
世界に衝撃を与えたのが、1972年ミュンヘン五輪の100メートルバタフライ決勝。欧米選手が絶対的に有利とされる種目を、1分3秒34の世界新記録(当時)で青木が制した。
競泳女子の金メダルは、「前畑がんばれ」の名フレーズで知られる36年ベルリン五輪の200メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子以来、36年ぶりの快挙。また、個人種目バタフライでの日本人選手の金メダル獲得は、2016年リオ大会を終えて男女合わせても青木しかいない。
壮絶だった五輪への道
このヒロインに続く待望の金メダル候補と見られていたのが、20年東京五輪を目指していた池江璃花子。2018年8月のパンパシフィック選手権100メートルバタフライでの池江の優勝は、同種目では青木以来46年ぶりとなる日本女子の主要国際大会での金メダルだった。
その池江は現在、白血病からの復活を期して治療と練習に励んでいる。宝島社新書『日本の金メダリスト142の物語』によると、約50年前にミュンヘン五輪を目指していた青木の特訓も壮絶を極めた。
熊本県で生まれ育ち、中学3年の時にスカウトされて単身で大阪へ。名門のスイミングクラブに水泳留学し、英才教育を受けた。毎日早朝から始まる猛練習は1日8時間にも及んだという。今の時代であれば確実に問題視される怒声や鉄拳も容赦なく飛んできた。プールサイドで涙を流していた青木を支えたのは、熊本の実家から父親が送り続けた励ましの手紙だった。
引退後は優しい先生
ミュンヘン五輪後、「また4年間も同じ練習はできない」と惜しまれながらも現役引退。大学で教員免許を取得し、保健体育の高校教師として定年まで勤め上げた。水泳部の顧問を務めた時期もあったというが、自身があまりに過酷な練習を体験したトラウマからか、厳しく指導することはなかったという。
青木は、これまでに何度か水泳大会の表彰式でプレゼンターを務めている。後継者として期待されていた池江にも、顔を合わせれば「がんばってね」と直接、優しく声をかけてきた。大病を克服し、現在も前に突き進もうとする20歳の後輩に、今の青木ならなんと声をかけるのだろうか。
(mimiyori編集部)