【連載「生きる理由」114】柔道金メダリスト・内柴正人氏 「夢と地獄の日々」⑤~原点となった少年柔道

夫人が監督を務める道場「EDGE&AXIS」(提供:合同会社EDGE&AXIS)

2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。

これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は、「夢と地獄の日々」の話⑤。

後輩の結婚式に招待されて上京しながら、夢を追いかけた懐かしい日々、かつ地獄の日々を思う。

中学1年にして「親の死に目に会えない覚悟」で住み込んでいた道場。
父と道場主がトラブルになった時、数日間は道場に残っていたが、
最終的に父のもとへ帰り、遠く離れた中学へ転校することに決めた。
日本一になるという夢をかなえるために、
自分で自分に厳しい練習を課すようになった原点を振り返る。

 

 

 

ここにいてはいけないと感じた

道場が3日間ほど閉鎖された期間も、僕は道場に残ってたんです。
閉鎖が解除され、戻ってくる人、来ない人。
僕ははじめから残ってました。

あれ?? やっぱり。
僕がいたらダメなんだな。
そんな感じでした。

その道場で僕は少年のほうのキャプテン。
〝長男〟だって言われていました。

子どもの頃、
試合で勝てたことなんてほとんどなく。
(中学デビューなんです)

試合の時、団体戦なんてマイナス1点は必ず僕が取られていました。

そんな少年柔道時代の道場。

それでも道場では
「正人の努力には足跡がある」
僕がいた時でも言ってもらっていました。

 

道場を辞めて 一の宮中学へ転校

少年柔道の道場で小学生時代に獲得したメダル(撮影:丸井 乙生)

道場を辞め。
家が道場と同じ校区内にあるもんで、校区内の中学校に入る。
あっ、地元の中学の柔道部に入ったところで、みんな道場の仲間たち。
意味がないので自宅から2時間ちょっとかかる阿蘇の一番奥。

一の宮中学に転校したのでした。

あの頃は寂しいなんてものではない。

朝早く5時45分
家を出て2時間ちょいの通学(途中から寮に変えた)。

学校、練習が終わり、2時間かけて家の近くまで来た頃に
寂しさからか、
道場の真横の道を通るんです。

電気がついてる時もあれば、まだ、練習をしている時もありました。

「やってるなあ」

僕がいた道場は県内で一番強いチームでした。
僕の学年でいえば、県内で1番、2番、3番、4番……6番手まで、全部チームメート。

僕は1度、試合の運で県2位にはなったことがあります。
(先日もその成績を覚えてる後輩がいました)

実際は一番使えなかったです。
ビビりだった。
一番、練習は出来るんだけど。
試合の時は緊張でまったく動けないんです。

誰よりも努力が出来るのではなく。
たくさん練習すれば褒められるから、練習は好きでした。

試合は怖いから嫌いでした。

 

留守番が何より恐ろしかった

転校先の一の宮中学時代に獲得した全国大会優勝メダル(撮影:丸井 乙生)

少し、違う話だけど。
家にいても人がいないので、道場で練習、自主トレをしていたほうが良かったんですね。


先日の結婚式で、僕が努力できた理由を後輩としていたんです。
一つは家庭の事情。
日中、父は仕事なんです。
家に誰もいない。
2人目のお母さんが来てからは、人が家にいたのだろうけど
何だろうね。
誰もいない家にいることが何よりも恐ろしかったんです。
オバケが出る気がする。
オバケ、苦手なんです。

柔道を習うようになり、家にいてもつまらないとか、そんなレベルではなく。
家で留守番していることが何よりも恐ろしかったから、
学校が終わったらそのまま道場に帰っていました。

「先生、ただいま帰りました」
「はい」

きっと
人がいる場所に足が向いてたんですね。

 

努力を必ず見てくれているという信頼感

もうひとつはね、
少年柔道だってなんだって、
厳しい環境では、絶対にぜーーーったいにサボる人がいますでしょ。

道場の先生はね、
そのサボる生徒を見つけるテクニックがハンパなかったんです。
シバかれる仲間たち。
シバかれる仲間たち。

当時、先生とずっと一緒にいたのでその先生の動きをよく見る側にいました。

シバかれる仲間たち。

ただ、
これが僕を育てた。
サボる人間の心の動きがわかる先生であるならば
努力する人間の行動を必ず見ててくれる。

そうでしょ。

どこで何やってても絶対に気づいてくれるはず。
だから、
アピールなんてしなくていい。強くなるために努力する。
絶対に気づいてくれる。

だから、弱くても強い同級生が移籍してきても、
僕は試合に選んでもらえていたのだと思います。

団体戦で当たりが良くて、僕も勝つことができた時なんて安心したものです。

 

自分への厳しさは自分自身で手に入れる

連覇した五輪(2004年アテネ、08年北京)の記念プレート(撮影:丸井 乙生)

人間、
頑張りを誰にも気付かれず、誰にも評価されないままだったらやる気も失せるでしょう。

褒められたいもん。
「正人の努力には足跡が見える」

それだけで試合は勝てないけど、選手になっていました。

そんな僕の出身道場。
辞めた後に寂しくないわけがない。
そうでしょう。

中学になり、ライバルは絶対に自分の地元の道場生が集まる地元の中学です。

これに名門、九州学院。

僕が転校した先の中学はね、
先生こそ、国士舘大学の出身で日本一を目指し、やる気に満ちていたのだけど。
柔道部員たちのレベルはと言うと………てん、てん、てん。

まったく強い人がいない、普通の中学の柔道部でした。
こう言って失礼にあたらないくらいに弱小チームでした。

先生のやる気、
保護者のやる気は凄いのだけど。

練習はゆるいし、しごきもない。
(中学の仲間たちは厳しかったし、しごきはあったと思っているらしい)

たまに追い込まれたりしてるふうだけど。
いやいや、抜いてるし。

そんな中学の練習を終えて地元に帰るとやっぱりね。
道場の真横の道を通るんです。

僕は今いるところで日本一になれるのだろうか。
厳しさをどうすれば手に入れられるのか。

この少年柔道時代の道場が地獄より厳しい世界を。

中学では、欲しいだけの勝つためのトレーニング、
自分への厳しさは自分自身で手に入れること。


だから、
国士舘高校での練習や厳しさは遊びにしか感じなかった。
大学での追い込みは演技にしか見えませんでした。

僕の自主トレは結局、引退するまで続き、
自分のトレーニングは基本独りでやってきました。

自分で頑張れる質量は子どもの時に育まれるのではないか。

そんなふうに思うようになりました。

だからって
厳しい話をしてあげることは出来るけど
追い込んでやることが出来ないんですよねえ。

今は子どもにも、考えてやれるように話しています。


僕の原点は少年柔道時代にあり、
中学の恩師により本当の主体性を学びました。


(内柴 正人=この項目つづく)

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◆内柴正人氏による柔道指導の動画配信      

内柴氏が現在、熊本・八代市で小学生から大学生を対象に開催している練習会を中心に、指導内容を盛り込んだ動画配信を22年4月から開始している。
より詳しい内容について、メンバーシップ配信も開始した。
メンバーシップ配信では、今回の道場づくりについても動画をアップ中。
詳細は下記YouTubeのコミュニティ欄へ。

www.youtube.com

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うちしば・まさと

1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。

 

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