2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は「現役時代の支え」について。前編は初出場した2004年アテネ五輪で満足した出来事、現役時代の苦しさを癒してくれたものとは。
夏といえばオリンピックの選手村
夏の匂いが漂ってきました。季節には春の香り、冬のシンとした空気、いろいろありますが、やっぱり夏がいいですね。オリンピックに初めて行った時の選手村で、一番興奮したことを思い出します。
選手村に入ったらだいたい、試合の時は現地入りしてすぐ、体重調整のため走るコースの下見をするために走りに行きます。選手村は広い。ですから、その中だけですべてがそろっています。
といっても、完璧に何もかもそろったジムに行くと、人がいるから嫌なんです。そこのサウナも、人がいるから行きたくない。なぜなら、苦しんでいる姿を見られたくない。話しかけられたくないのです。
あの国の国旗を探す
いつものように、コースを決めて外へ走りに行く。選手村では、いろんな国の選手が自分たちの泊まるマンションタイプの部屋の窓にそれぞれの国旗を飾ります。
日本チームの男子は誰も持ってこないのですが、走っていると目に入ってきます。アメリカ、カナダ、フランス、いろいろ。よく見る旗にはあまり興味がなかったけれど、これだけは特別でした。
当時憧れていた好きな国、ジャマイカ。
まず、この旗を探しました。
高校の頃から聞いていたレゲエがきっかけで、ジャマイカに憧れていたのです。柔道とレゲエの国は全くつながりがない。遠征や大会でいろんな国に行ったけれど、関わりのない国の1つでした。
それが、この時に初めて「よし、関わった」。
といっても、レゲエの国の選手がいるマンションを見ただけなのですが、それだけで満足でした。
「満足」のハードルを越えるまではとにかく我慢
僕の満足ってそんなもので。数年前に、海外選手のコーチをすることで柔道の世界選手権に行けた時も。
「よし、帰ってきた」
満足したという意味での「もう、いい」。
世界選手権に行っただけで満足だったのです。
昔の話でいえば、中学の全国大会で優勝した時もそうでした。前の年は2位で嬉しかったけれど、周りに「あと一歩だった」と言われるのが嫌で、1年間頑張って翌年、やっと日本一になったんです。
それで「もう、いい」となって柔道を辞めると言ったら、優勝した当日は夜中まで恩師に説教されました。あの時、寝たのは夜中の3時でした。
柔道で高校へ行くように言われて、日本一になった時も「もう、いい」。満足のハードルは低いんです。その「満足」は簡単にするのだけれど、ただし、そこに行くまでの苦しみってやつはとにかく我慢します。
そんな感じで、憧れていたレゲエの国についても、オリンピックの選手村で国旗を眺めただけで「ここまで来れて良かったあ」と思えたのでした。柔道と全然関係ないですけどね。
(内柴正人=この項つづく)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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