【連載「生きる理由」38】柔道金メダリスト・内柴正人氏 「柔道ノート」前編

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練習の〝相方〟のためにタイヤ引きの準備をする内柴正人氏(写真:本人提供)

2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。

 

これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回はアスリートなら経験のある「ノート」について。若かりし日、競技について練習内容や課題、考え方を日々つづるものだが、内柴氏も学生時代は「柔道ノート」を連日書き記していた。

 

 

 

柔道ノート

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弟子は内柴氏の現役時代の練習である「タイヤ引き」を毎日こなす(写真:本人提供)

(最近、一緒に練習している学生の)相方に「柔道ノートを書き始めた」と言われた。

ほー。

少し前に、自分がしてきたことの一つととして、「柔道ノート」の話をしたことがある。とはいっても、僕は先生でもない。やらせる強制力もない。やらせるつもりもなかったのだが、書き始めたらしい。

 

やるなら全力 現役時代につけた「柔道ノート」

僕の話。

学生時代に柔道ノートを書かせられる時期があった。物事をやらされることが嫌いな僕。一方で、やらなきゃならない現状。だったら、ちゃんとやろう。

いざ始めた僕は、ひたすら細かくまじめに書いた。1日2ページは1行もあけないで細かく書いていました。背負い投げという技も、「背負い」と書くのではなく「背負い投げ」とちゃんと書いて。そりゃもう面倒くさい。

そして、毎日書くことになっているノートでも書けない日、書きたくない日は、僕にとっての適当で書きました。書く日は1日2ページ以上。書かない日は3行。

 

他の学生はというと

「心·技·体

心、頑張る。

技、かつぎにこだわる。

体、全力でトレーニングをする」

 

こんなもんにもう少し書いただけのものでした。見て知っていたので、大げさではなく。

 

抜き打ちのノート検査

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キルギス共和国時代の教え子からは、今も動画が届くなど慕われている(写真:本人提供)

大学1年か2年の夏の合宿で、ノート検査があって回収されたことがありました。

マネジャーが早く回収しようと頑張るところを、先輩、同級生らは少しでも書いてない日をごまかそうと新しいノートに変えたり、頑張って1ページを何行も開けて行数、ページ数を稼いだりして、回収しようとするマネジャーの時間も稼いでいました。

 

僕はというと、結果的に大学4年間の単位を全て取り終えるのに4年間フルに使い、必死で卒業の単位を稼ぐほど紙とペンとは縁の遠い人間であるけれど、柔道ノートといえば、やると決めたらやる時は全力。あの時はノートを2冊渡しました。

もちろん、書いてない日もあるけれど、そのまま出しても読み切れるものではない。大丈夫。堂々と出したことも覚えています。

 

「こいつはいつか世界を獲る」

合宿が進む中、マネジャーが寄ってきました。

「斉藤先生が褒めてたよ」

何のこと?

「こいつはいつか世界を獲る、って言ってた」

 

当時の僕は、嬉しいくせに(当たり前だろ)という態度であったように思います。柔道ノートにはそんな思い出があります。

(内柴 正人=この項つづく)

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うちしば・まさと

1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。

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