昭和の三四郎・平成の三四郎共に、柔道人気を不動のものにした超人だった。
1964年東京五輪・柔道中量級で岡野功は金メダルを獲得した。
20歳で五輪金メダルを獲得してからも、65年世界選手権、67年全日本選手権で優勝を果たし、中量級選手で史上初となる「3冠」を達成した。中でも体重無差別の全日本選手権で、体重80キロに満たない岡野が67、69年と優勝した姿に、日本中が驚いた。
「柔よく剛を制す」を信念に、「後の先」の理念を確立し、「昭和の三四郎」の名を馳せた男。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
勝って当たり前 重圧を跳ねのけ日本柔道界2人目の金メダリストに
日本武道館は超満員だった。
1964年東京五輪、前日には軽量級で中谷が金メダルを獲得。最終日の無差別級・神永の出場に向けて、会場のボルテージは高まるばかりだ。そんな大声援を背に、岡野は予選リーグを危なげなく勝ち上がった。
そうして迎えた準決勝の相手は、韓国の金義泰。
事実上の優勝決定戦と言われる中、岡野は闘志むき出しで攻め続けた。まず背負い投げで、相手の攻めを封じ、3度の小内刈りを連発して優勢勝ちを収めた。
決勝の西ドイツ・ホフマン戦では、足技と見せかけて、下から関節を取りにきたところを抑え込み、横四方固めで一本勝ち。日本中の期待に応える圧勝で金メダルを獲得した。
中量級で初!3冠達成・体重無差別でも日本一
それでも岡野は満足しなかった。
翌65年世界選手権、67年全日本選手権で優勝を果たしたのだ。
中量級選手で史上初となる五輪・世界選手権・全日本選手権の「3冠」を達成した。
3冠は3冠でも、五輪の金メダルを最初に獲得して全日本が最後と、常識を覆すようなスタイルをここでも披露している。というのも全日本選手権は体重無差別で、体重80キロに満たない岡野は圧倒的に不利なのだ。それでも69年全日本選手権でも優勝を果たし、2度の栄冠を手にしたのは、歴史的快挙だった。
バイタル柔道は柔道家の必読書!あの白鵬も目指した「後の先」
しかし、25歳で現役を引退。理由は「体力の限界」だった。
自分より体重の重い相手に対峙するのは、我々が想像するよりも遥かにハードだったのだろう。だからといって休暇を取るわけでもなく、70年には後進を育成するための「正気塾」(現・流通経済大学柔道部の合宿施設)を設立し、73年からは日本代表チームのコーチとして、指導に専念した。
その時に出版した著書「バイタル柔道」は、1つの技を5〜10枚以上の連続写真で撮影して解説を行い、日本のみならず世界中の柔道家の手本となった。2013年には新装改訂版として復刻も果たしている。
また、「後の先」という相手が仕掛けてきた技の力を利用して一本を取る理念は、柔道以外の分野でも重宝され、横綱・白鵬も教えを乞うたことから、岡野の理念は時代を超えて通用することが証明されている。
さらに大野将平は、岡野のスタイルを最終目標に掲げ、東京2020大会で金メダルを目指す。
岡野の信念を受け継いだ「令和の三四郎」が誕生する日もそう遠くない。
(mimiyori編集部)