極限状態を乗り越え、真の世界王者に輝いた。
1968年メキシコシティー五輪・レスリングフリーフライ級で、中田茂男は金メダルを獲得した。64年東京五輪・同級で金メダルを獲得した吉田義勝との代表争いを制し、五輪では優勝候補を破って金メダルを獲得。華々しい道をたどったかのように見えたが、舞台裏では高地開催の気候条件と8キロの減量に苦しめられていた。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
レスリングの名門・中央大学へ~伝統を受け継ぐ
先輩たちの活躍を目の当たりにした。
東京大会が開催された1964年、中田はレスリングの名門・中央大学に入学。
中大レスリング部といえば、52年ヘルシンキ大会・バンタム級で金メダルを獲得した石井庄八や、56年メルボルン大会・フェザー級の笹原正三、ミドル級の池田三男、64年東京大会・フェザー級の渡辺長武など、名だたる金メダリストを輩出し、戦後の日本を勇気づけてきた。
渡辺が出場した東京大会で、選手のサポート役を担った中田も、五輪の緊張感を間近で味わうことができたという。
前大会金メダリストの同郷・吉田と代表争い
伝統ある部で鍛錬を積んだ中田は、大学2年時に全日本選手権で準優勝すると、3年時には優勝を果たす。67年には世界選手権で優勝し、世界王者として迎えたのが68年メキシコシティー大会だったのだ。
ただ世界王者だからといって、簡単に五輪に出場できるわけではない。
日本の代表選考会をくぐり抜けなければいけないのだ。相手は、64年東京五輪金メダリストの吉田義勝。偶然か必然か、2人は同じ北海道旭川市の出身だった。
同郷同士の争いは中田が制し、初の大舞台への出場権を獲得した。
極限状態で挑んだ金メダル 種目2連覇達成
迎えた68年メキシコシティー大会だったが、中田の体は完璧な状態にはほど遠かった。
というのも、普段の体重60キロから8キロの減量が必要となり、大会期間中の食事は最小限に留められたのだ。また標高約2000メートルの高地で開催されたため、酸素が薄く感じられ、中田は身体的に極限状態に追い詰められていた。
にも関わらず、5回戦では優勝候補のサンダース(米国)に大差の判定勝ち。
続くスクバタール(モンゴル)戦では、相手に縦回転させられて同点に追いつかれた直後、首を攻めて袈裟固めにつなげフォール勝ちを決めた。
苦労を乗り越え、吉田に続いてこの種目で日本勢による連覇を達成。
以後この階級では加藤喜代美、高田裕司、佐藤満と日本勢が金メダルを独占し続け、「栄光の52キロ級」と呼ばれることになるとは、まだ知る由もない。
金メダルから50年…世界レスリング連盟殿堂入り
中田は、その後も減量に苦しめられ、72年ミュンヘン大会の代表選考会は、減量失敗で棄権した。
引退後は、68年に入隊した自衛隊の体育学校で指導に励み、76年モントリオール大会、84年ロサンゼルス大会でコーチを、88年ソウル大会ではヘッドコーチを務めるなど後進の育成に尽力した。ただ60歳を前に、日本レスリング協会の要職などを全て退き、旅行や登山を楽しむ生活を選択している。
そして、メキシコシティー大会で金メダルを獲得してから50年後。
2018年に、日本男子6人目の世界レスリング連盟殿堂入りを果たした。
(mimiyori編集部)