気合と根性と頭脳はいつの時代も最強である。
レスリング界きっての頭脳派・上武洋次郎は、1964年東京五輪・レスリングフリー・バンタム級で金メダルを獲得した。
62年秋からの米国での武者修行を経て、五輪・決勝リーグでは肩を脱臼しながらも諦めない姿勢が日本人に希望を与えた。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
1962年に留学・米国仕込みの技術と理論を持ち帰る
群馬県邑楽町に生まれた上武は、中学時代は柔道・館林高校でレスリングに熱中した。
インターハイ優勝など圧倒的な実力を持っていた上武だが、61年に早大入学後も満足することなく、さらに上を目指し続けていた。
そんな上武が選んだ次の舞台は、米国・オクラホマ州立大学だった。
1ドル360円。今とは比べ物にならないほど海外への旅が高額で、外国への留学なんて夢のまた夢だった時代。それでも上武は、全米でレスリングが盛んなことで有名なオクラホマ州で、武者修行をすることに決めた。
留学先では、56年メルボルン五輪で笹原正三に敗れ4位になったローデリック氏に指導を仰いだ。米国仕込みの技術に加え、理論的に試合を構築するクレバーさも教わった。
五輪・決勝リーグで左肩脱臼!あえて相手の得意技に踏み込んだ
そうして五輪イヤーの夏休みに一時帰国、全日本選手権で優勝し日本代表の座を獲得した。
迎えた東京五輪だったが、アクシデントの連続だった。決勝リーグの、イブラギモフ(ソ連)戦で左肩を半脱臼。アクバス(トルコ)戦で完全に脱臼した。
だが肩が外れたくらいで、上武が諦めるはずもなかった。アクバスの得意とする、前に出した左足にタックルさせ有利な状況に持っていくスタイルに便乗し、あえて左足に強烈なタックルを加え、その勢いでしりもちをつかせたのだ。
相手の得意技を分析した上で、肩の外れた自分が勝てる方法を探し、実行する。頭脳派ならではの勝利の方程式を生み出したのだった。
米国大学で殿堂入り・五輪連覇後は旅館業へ
金メダルを獲得した上武は、米国に戻り、64〜66年の全米選手権で3連覇・66年世界選手権では米国チームのアシスタントコーチとして帯同した。68年6月に卒業したオクラホマ州立大学ではOBの偉人として殿堂入りするほど、米国でも認められる選手になっていた。
その後帰国した上武は、68年メキシコシティーオリンピックでも優勝・日本男子レスリング選手で唯一の五輪連覇を果たした。69年に結婚し夫人の姓「小幡」に改姓、旅館業を引き継ぐという、最後まで異色ぶりを発揮したレスリング人生だった。
(mimiyori編集部)