【五輪金メダリスト連載】「三四郎」が見せた生きざま~1992年バルセロナ五輪柔道71キロ以下級・古賀稔彦

 

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

極限まで体を鍛え上げて競い合うスポーツでは、常に故障が付きまとう。だからこそ、けがに屈することなく戦う選手の姿に人々は胸を打たれる。 

正月の風物詩である箱根駅伝では2021年、足がつりそうになりながらも懸命にタスキをつないだり、怪我で出場が叶わなかった選手が必死でサポートしたりする姿が放送された。 

1992年バルセロナ五輪でも故障を抱えながら戦った選手がいた。

柔道71キロ以下級の古賀稔彦だ。

日本中の期待を背負っていた男の負傷に一度は誰もが落胆した。しかし、古賀は不死鳥のごとく甦り、金メダルを獲得した。

 

 

 

 

 

「昭和の三四郎」

古賀が初めてオリンピックに出場したのは1988年ソウル五輪だった。背負い投げを武器に金メダルの最有力候補と見られていた。富田常雄の長編小説「姿三四郎」の主人公から「昭和の三四郎」の異名を取り、人気も抜群だった。 

しかし、まさかの3回戦負け。金メダルが絶対とされていた当時の雰囲気にのまれ、重圧から自分を見失ってしまった。 

大会後、バッシングの嵐に遭ってしまう。そこで立ち返ったのが、柔道私塾・講道学舎の教えだった。日本のために勝たなければと思い過ぎていたことを反省し、再び自分で考えて柔道を作り上げ、徐々に自信を取り戻していった。 

90年全日本柔道選手権では無差別級にもかかわらず、169センチ、76キロの小兵・三四郎は準優勝を飾った。100キロ台の選手を次々と破り、準々決勝では最重量155キロの相手にも勝利を収めた。

人気は絶頂に達し、92年バルセロナ五輪では心身ともに全盛期を迎えて日本選手団の主将にも任命されていた。今度こそ絶対に金メダルを、と期待されていた。

 

後輩・吉田との練習で負った大ケガ

 

 

 

しかし、現地で後輩の吉田秀彦と練習した際に、古傷の左膝を痛めた。膝の内側のじん帯を損傷して全治2カ月の重傷。本番までの完治は期待できず、まともに歩くこともできないほどの大ケガだった。

負傷は減量にも影響を及ぼした。練習ができないため、試合当日まで飲まず食わずで強引に体重を減らすしかなかった。 

吉田は講道学舎の2期後輩で、ソウル五輪では付き人を任せるほど仲が良く、バルセロナ五輪の選手村でも同部屋だった。 

吉田は先輩を負傷させてしまったことでショックを受けたが、古賀は全く動揺していなかった。「俺は優勝するから大丈夫だよ」と声をかけたという。 

気持ちが勝負だけに集中できるようになったことで、逆に吹っ切れていた。ソウル五輪とは違う。それまでの練習と努力に自信があったからこそ、たどり着いた境地だった。

 

古賀が見せた執念

左膝に局部麻酔を打ち、テーピングで固めて試合本番に臨んだ。開始線に向かう古賀の足取りは堂々としており、ケガの影響は感じられない。出場自体が奇跡と言われた中で、三四郎は勝ち進んだ。 

準決勝はドイツ代表トッド。襟元をつかもうと前に出るトッドの右手を利用し、一瞬の隙をついて背負う体勢に入る。トッドは抵抗しようと粘るがその体は既に宙に浮いており、なすすべなし。そのまま一本背負いが決まった。膝の負傷があるとは思えない、完璧な一本勝ちだった。 

決勝はハンガリー代表ベルタラン。一進一退の攻防だったが、勝負は判定へ。タイムアップの後、古賀は静かに右のこぶしを握った。 

その手応え通り、3-0の判定で勝利。主審の手が上がった瞬間、今度は両手のこぶしを固め、天を仰いで絶叫。感情を爆発させた。

表情は決して穏やかではなく、金メダルまでの道のりが険しく壮絶だったことを物語っていた。

 

受け継がれる柔道の精神

 

 

 

試合後、古賀はケガの責任を感じていた後輩と涙で抱き合った。吉田は前日の78キロ以下級で金メダルを獲得していたが、罪悪感からか一切の笑顔はなかった。古賀の金メダル獲得は後輩も救った。 

現役引退後、古賀は指導者の道へ。全日本女子柔道チーム強化コーチを務め、2003年には子供の人間育成を目的とした柔道場「古賀塾」を開塾した。柔道の創始者である嘉納治五郎氏の「精力善用」「自他共栄」という理念のもとに指導にあたっている。 

心技体を整えて立ち向かう柔道において、ケガで万全ではなかった古賀を支えたのは心の力だった。

国民的ヒーローを支えた柔道の精神は、今も若い世代へと受け継がれている。

 

 (mimiyori編集部 PN:権田卓也)

 

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