いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。
「前畑、がんばれ」の名フレーズを生む
「前畑、がんばれ!」
「前畑、勝った! 勝った勝った!」。
「前畑さん、ありがとう!」
ラジオからの連呼と絶叫は深夜の日本に響き渡った。日本女子が初めて五輪金メダルを獲得した瞬間を伝える名フレーズは、半世紀を経た今も日本人の胸に刻み込まれている。1936年ベルリン五輪で前畑秀子が制した200メートル平泳ぎは、最後まで地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとのデッドヒート。五輪で優勝するために、自身に1日2万メートル泳ぐことを課したとされるヒロインの栄冠は、NHKの河西三省アナウンサーの実況とともに日本が誇る伝説となった。
32年ロス五輪では銀メダル
和歌山県橋本町(現橋本市)出身。1914年に両親が営む小さな豆腐店に生まれ、幼少時代から地元の紀ノ川で泳ぎに親しんだ。小学校の高学年になると、平泳ぎで当時の日本記録を更新し、天才少女として注目された。ハワイでの国際大会参加を機に五輪出場への思いを強くし、名古屋への水泳留学を敢行。高等女学校の在学中に両親を相次いで亡くす不幸に見舞われたが、五輪への夢はやむことなく、32年ロサンゼルス五輪に出場している。
現役引退を周囲が認めず
そのロス五輪では、200メートル平泳ぎで銀メダル。宝島社新書『日本の金メダリスト142の物語』によると、当時18歳だった本人は結果に納得して、大会後に引退と結婚を考えていたが、帰国すると金メダルを期待する周囲から「次も出てほしい」と4年後のベルリン五輪出場を懇願されて続行を決意した。
この後の4年間は、午前5時から深夜まで連日2万メートル近くは泳いでいたとされる。しかも、まだ温水プールのない時代。冬季の水の冷たさは想像を絶するほどだったはずだが、それでも前畑は泳ぎこんだ。試練を克服し続けた不屈の精神
悲願を達成したベルリン五輪後に引退し、翌37年には結婚した。2男にも恵まれ、金メダルを目指していた苦行からは解放されたが、40代の時に最愛の夫が急逝するなど「第二の人生」でも試練はあった。夫の死を乗り越え、当時は画期的だった「ママさん教室」や「幼児教室」などを開催して水泳の普及に努めていた60代には自身が脳出血で倒れた。一時は生死の境をさまよい、意識が戻っても当初は半身に麻痺が残ったが、それでも懸命なリハビリで退院し、1年後にはプールに復帰して指導を再開。80歳までの人生を全うした。
人生の苦しい時期には、金メダルのために耐えた過酷な練習のことをいつも思い出していたという。転んでも、倒れても、再び立ち上がる。この不屈の精神こそが、金メダルよりも輝かしい前畑の伝説といえる。
(mimiyori編集部)