【プロ野球】東京五輪延期も備えあれば憂いなし~稲葉篤紀

羊ヶ丘展望台から見た札幌ドームとクラーク博士象

さっぽろ羊ヶ丘展望台から眺めた、北海道日本ハムファイターズの札幌ドーム。左はクラーク博士(写真:photoAC/ rinkontoro

東京五輪の1年延期は多くのスポーツ関係者に大きな影響を与えた。

金メダルが期待されていた野球日本代表「侍ジャパン」を監督として率いているはずだった日本ハム・稲葉篤紀スポーツ・コミュニティー・オフィサー(SCO)もその1人。20年シーズンは、球場視察ではなくテレビ視聴などで選手の動向をチェックしている。新型コロナウイルス感染拡大という想定外の事態に見舞われたが「気持ちに変わりはない」という。

備えあれば憂いなし。これは20年2月に亡くなった野村克也氏に学んだことでもある。

 

 

 

 

”父親参観”で見初められた

名将・野村との出会いは94年秋。出会いといっても、初めは野村の一方的な一目ぼれで、その事実を稲葉が知るのはもう少し後になる。

 

「証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと」(宝島社)によると、ヤクルトの指揮官だった野村は、当時明大3年だった長男・克則(現東北楽天ゴールデンイーグルス1軍作戦コーチ)を応援するために、昼間の神宮球場で行われていた東京六大学秋季リーグ、明大―法大戦を2日連続で観戦した。その両試合で本塁打を放ったのが、当時4年で法大4番の稲葉だった。

 

季節はプロ野球ドラフト会議の直前。野村はヤクルトの球団スカウトに稲葉のことを確認し、リストアップされていないことを知った。稲葉の打撃を諦めきれない野村は、ヤクルトが求めていた「左の外野手」の枠に稲葉を猛プッシュ。当時は「一塁しか守れない」とされていた大学生をドラフト3位で強行指名し、翌年の春季キャンプまでに外野手用のグラブを用意させた。

 

日本シリーズで弱点を怒られた

 

野村のお眼鏡にかなっただけあって、稲葉はプロ1年目から初打席初本塁打など結果を出した。と同時に、他の主力同様、怒られ続けた。特に思い出深いのが、西武と対戦した97年日本シリーズ。第2戦の勝負どころで、稲葉は西武・森慎二のフォークボールに空振り三振を喫し、チームも試合に敗れた。

 

試合翌日、指揮官に呼び出された。

「何であそこでフォークを振ったんや」

両リーグ覇者が激突するシリーズの真っ最中ながら、普段と変わらない説教を受けた。意識はしていても、どうしてもフォークに手が出てしまうことが当時の稲葉の弱点。配球や打席での待ち方などについてコンコンと説明され、自身の考えを改めた。

結果的にヤクルトは同シリーズを制して日本一に輝くのだが、日本一そのものよりも後年まで自分の打撃の軸となった教えの方が脳裏に刻まれている。  

 

日本ハムで知ったノムさんの偉大さ

 

90年代のヤクルトの選手であれば、ミーティングでノートを取ることが常だった。稲葉は04年に日本ハムへフリーエージェント(FA)移籍してからも、習慣を継続した。移籍当初、他にノートを取るような選手は見当たらなかったが、徐々に普及していった。

しかも、その動きに合わせてチームに一体感が出るようになり、06、07年には球団初のリーグ連覇を達成した。

「みんなが同じ方向に向くとか、分かってもらうのはすごく時間のかかること。それをコツコツとやってこられた野村さんはすごい」

思いがけず、野村の偉大さを改めて知ることとなった。

 

ノートだけでなく、心に留めている野村の言葉の1つに「備えあれば憂いなし」がある。

細かいことにこだわり、準備を怠らなければ、本番に臨む姿勢はおのずと変わってくる。だからこそ、東京五輪が延期になっても、平常心を保ちながら粛々と準備する。天国で観戦するであろう野村が再びほれてくれるような金メダルを獲得するために。

 

詳細は『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社)で。

(mimiyori編集部)