【プロ野球】甲子園がすべてじゃない 出場せずに大成した人は大勢いる

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高校野球の聖地、阪神甲子園球場(写真:photoAC/ma35)
新型コロナウイルスの影響で、春の選抜に続き、夏の甲子園大会が中止となった。

「最後の夏」に甲子園出場の夢をかけていた高校3年生の思いは計り知れないが、甲子園だけが野球人生のすべてではない。

あの長嶋茂雄も、野村克也も、稲尾和久も、甲子園には行かず、プロでスターになり、レジェンドになり、神様になった。日本プロ野球が誇る「甲子園に行けなかったレジェンドたち」のちょっとした話を紹介する。
 

甲子園どころか映画館に入り浸り

3度の三冠王は不登校児だった。

秋田の怪童と言われていた落合博満は、進学した秋田工高の野球部に入ったものの「高校野球はほとんどやっていない」という。入部早々、理不尽で厳しい「先輩後輩」の上下関係に嫌気が差し、野球部の練習どころか学校にも行かなくなった。いわゆる不登校となり、昼間から映画館に入り浸った。

野球をまったくやっていなかったわけではない。野球部の大会が近づくと、なぜか「出席日数の不足」を理由に学校から呼び出しがかかり、仕方なく授業に出ると放課後には野球部の先輩が教室まで迎えに来て、試合へ“連行”された。大会には出場するが、その後も野球部の練習には参加しない。近所の山中での素振りや、当時まだ木製だった電柱をバットでたたくことが、オレ流の練習だった。

電柱のたたき過ぎで近隣の電気を消してしまったこともある落合にとって、甲子園は出るものではなく、もっぱら見るもの。中日の監督になってからも甲子園大会のほぼ全試合をテレビ観戦し、大阪桐蔭高の主砲だった平田良介の素質にほれ込んでドラフト指名するなど、チーム作りに役立てた。

燃える男の原点になった劣等感

監督として中日、阪神、楽天の3球団でリーグ優勝を達成した星野仙一も甲子園には行っていない。岡山・倉敷商高の野球部で目指していたが、毎年、あと一歩のところで逃していた。

「うちの連中はかなり出てるだろ? タツ(立浪和義」、コースケ(福留孝介)、セキ(関川浩一)もそうか?」

中日監督時代、大会の時期になると決まって甲子園出場経験のある選手を指折り数えていた。その理由を尋ねると「本当に憧れたからなー」と単に自分も出たかったからと認めていた。誰も聞いていないのに、高野連の会長になったつもりで開会式のあいさつを披露したこともある。

「『オレはおまえたちと違って甲子園に出ていない。だから、劣等感を持っている。おまえたちは幸せだ。いつまでもその気持ちを忘れるな!』ってなとこかな」

そんな星野が、「もし出ていたら、今の自分はなかったと思う。甲子園で騒がれて、まだ実力もないのに、その気になって自分を過信していたかもしれない」とも話していた。自分は甲子園に出ていない、と生涯持ち続けた“劣等感”こそが、燃える男の原点だった。
 

野球人生で最も泣いた試合

50歳まで現役を続けたレジェンドは、自分だけでなく、先輩たちの「最後の夏」まで自分で終わらせてしまった。

通算219勝を挙げ、2015年に50歳で現役を引退した山本昌は、神奈川・日大藤沢高時代、1学年上にいたエースに次ぐ、2番手投手だった。2年の夏は、そのエースとの2枚看板として活躍。県大会では2人で1点も失うことなく、ベスト8に進出した。

準々決勝の相手は「Y高」と知られる強豪・横浜商高。順番からいえば先発は山本昌なのだが、相手が相手だけに、内心では「ここはエースがいった方がいいのでは」と思っていた。この試合、先発した山本昌は1点差で敗れ、「野球人生で最も泣いた試合」と言い切るほど号泣した。先輩たちに申し訳ないという気持ちと、弱気になった自分のふがいなさから涙が止まらなかったという。

試合後、翌年はY高のエースとなり、2年後には中日ドラゴンズでチームメートになる三浦将明に「来年もまた投げ合えるように頑張ろう」と声をかけられたのだが、後年の三浦によると「(山本昌は)まったく答えられないくらいに泣きじゃくっていた」らしい。結局、3年の夏も準々決勝で敗れ、山本昌は8強の壁を破れないまま高校野球を終えている。

今も昔も甲子園が高校野球の聖地であることに変わりはない。しかし、大会があったかなかったか、大会に出たか出なかったか、が大事なのではなく、甲子園が輝いて見えた高校時代の現実や思い出を、その後どう生かしていくかで、それぞれの人生が決まる。

(mimiyori編集部)