【プロ野球】元祖・守護神はゆで卵好きのあの人だった

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ある守護神の大好物、ゆで卵。目次「2」のアノ人です。(写真:photoAC/ c*******************p)
2020年のプロ野球は「守護神」にとって受難のシーズンとなっている。開幕から1カ月が経過したが、セ・リーグを見ると、巨人、阪神、広島の抑え役は早々に出場選手登録を抹消され、ヤクルト、中日も大苦戦。日本を代表する抑えのDeNA山崎康晃までもが7月末までに3敗を喫し、配置転換を余儀なくされた。チームの命運を握る、このポジション。意外にも元祖は“あの人”だって知っていましたか?
 
 

近藤貞雄が投手分業制を提唱

かつては「先発完投至上主義」が日本球界の常識だった。その中で、本格的な「投手分業制」を初めて唱えたのが、中日や日本ハムの監督を務めた近藤貞雄だったとされる。

「権藤、権藤、雨、権藤…」で知られる権藤博(中日)は、1961年に新人ながら35勝を挙げて最多勝、新人王、沢村賞などの賞を総なめにしたが、当時の中日投手コーチだった近藤は後年まで責任を感じていた。権藤は翌年も30勝しているが、登板過多がたたって選手としては短命に終わってしまう。そのきっかけをつくってしまったことへの後悔から、近藤は「投手の肩は消耗品」という結論に行きついた。

あの板東英二が初代ストッパー

64年に西沢道夫監督の下で投手コーチに復帰した近藤は、シーズン途中に1人の男を“実験台”として初代ストッパーに指名した。この役割を引き受けたのが、徳島商時代の58年に夏の甲子園で準優勝投手となった板東英二。当時は、「抑え専門投手=敗戦処理」と見なされていた時代だったが、右ひじ痛のため長いイニングを投げることに不安を抱えていた板東は救援投手となることを快諾した。

実験は成功し、板東は抑え投手ながら翌65年から3年連続2桁勝利をマーク。この活躍で徐々に他球団にも救援投手が普及していく。新たな動きに合わせて74年には救援投手に「セーブ」が与えられるルールに改定され、表彰項目にも「最多セーブ」が加えられた。

「8時半の男」より地味に活躍

近藤が提唱した分業制は当初、反対する声が多かったという。中でも急先鋒に立っていたのが、当時の巨人投手コーチだった中尾碩志(ひろし)。「投手は先発完投を目指すべき」と近藤理論に異を唱えていた。

しかし、その巨人でも「8時半の男」と呼ばれた宮田征典が65年にリリーフとして20勝を挙げている。シーズンのMVP候補に名が挙がるなど脚光を浴びていた宮田とは対照的に、当時の板東は影が薄かった。それでも1年限りの活躍で終わった宮田と違って、板東は毎年コツコツと登板を重ね、現在のクローザーはほぼ1イニングしか投げないのに対し、板東は1試合2イニング以上を投げた。まだ「セーブ機会」の定義がなかったため、早い回からマウンドに上がって試合最後までロングリリーフすることもあった。

 

直系後輩が地位確立

残念ながら「セーブ」がルール化される以前の69年限りで現役引退したため、その功績が語られることは少ないが、入れ替わりで中日に入団した星野仙一が、74年にセ・リーグの初代セーブ王に輝いた。また、近藤が唱えた投手分業制を、後年は横浜で監督を務めた権藤が中継ぎ陣のローテーション制を導入するという新たな形で継承した。そして、くしくも板東が活躍した同じ中日で、半世紀を経てから岩瀬仁紀が通算407セーブ、通算1002試合登板という前人未踏の記録を打ち立てた。

現在は、ゆで卵好きのタレントとして知られる板東から始まった「守護神制」。コロナ禍で開幕が大幅に遅れたプロ野球を盛り上げるため、歴史を築いてきたOBたちを安心させるためにも、各球団の守護神の立て直しが急務といえる。
(mimiyori編集部)