【プロ野球コラム】ドラフト漏れにも福がある~2019年ドラフトから紐解く あの人もそうだった

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岩瀬仁紀(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

2019年のプロ野球ドラフト会議も逸材の競合で盛り上がった。西武と巨人が競合した社会人ナンバーワン右腕の東芝・宮川哲投手は、後からくじを引いた西武の辻監督が“残り物に福”で交渉権を獲得。上武大4年だった2年前にドラフト漏れの屈辱を味わってのプロ入りというが、日本球界を代表したあの守護神も、すべての始まりはドラフト漏れだった。

 

 

学生時代は「外野手・岩瀬」

前人未踏の1000試合登板を達成し、中日の守護神として407セーブの日本記録を更新した岩瀬仁紀は、愛知・西尾東高校から愛知大学へ進学し、愛知大学野球リーグで活躍した。高校時代から夏の県大会でノーヒットノーランを記録するなど、地元では評判のサウスポーだったが、大学では投球よりも打撃で目立っていた。

入学後すぐに外野のレギュラーとなり、2年夏には外野手として日米大学野球の日本代表に選出されている。同じ日本代表には、高橋由伸や稲葉篤紀らのちに球界を代表する強打者がいた。同じ左打者として大きな刺激を受け、3年になると愛大で投手兼任を志願。投手として投げるようになったことは打撃にもよい効果を及ぼし、それまでは引っ張り専門で、ボール球でも初球からブンブン振っていたスタイルが、ボール球は振らず、逆らわない打撃に変わった。

 

リーグ記録にあと1本

3年春には1試合3本塁打を記録。広角打法を習得した4年になるとエースながら安打製造機と化し、とにかく打ちまくった。通算124安打は、当時の愛知大学リーグ記録にあと1本と迫る2位。リーグ最終戦に記録更新の期待がかかっていたが、惜しくも届かなかった。

「あの時、もし打って記録を塗り替えていたら、自分の野球人生は違うものになっていたかもしれないよね」

 

ドラフト会議は ああ無情

学生時代からプロ志望。3、4年になってよく打っていたころから、少なからずプロに注目されるようになっていた。「外野手として下位指名があるかもしれない」。風のうわさに心を躍らせ、ドラフト指名に淡い期待を抱いた。しかし、愛大・岩瀬の名前がドラフト会議で呼ばれることはなかった。

「ものすごく期待していたわけではなかったけど、『あー、ダメだったか』ってそれなりにショックはあったよ。でもね、あの時は不思議と『プロ野球の世界はそう甘くない。野球の神様が、おまえにはまだ早い、って言ってるんだ』って素直に思えたの。だから、すぐに切り替えられた。今思えば、本当に良かったなあ」

 

 

投手でドラフト逆指名

もし指名されていれば、打者としてプロで勝負していたことになるが、ドラフト漏れしたことで、岩瀬はバットを置いた。社会人のNTT東海へ進み、投手一本でプロを目指す覚悟を決めた。2年間の社会人時代に、プロでも生命線となる鋭いスライダーを習得。社会人ではほとんど打たれることがなかった宝刀を引っ提げて、99年に逆指名で中日に入団した。

 

臥薪嘗胆が強み

新人の年からリーグ最多の65試合に登板してリリーフの柱となり、18年に引退するまで通算1002試合に登板した。数字と結果だけ見れば順風満帆な鉄腕人生だが、実はプロ初登板は1死も取れないまま降板している。並みの新人なら降板後はベンチの隅で小さくなっているものだが、この時の岩瀬は赤鬼のような顔でベンチ中央にどっかと腰を下ろして周囲を驚かせた。「あまりに悔しくて。あの悔しさだけは絶対に忘れないよう、自分が情けなかった球場の光景を目に焼き付けたかった」。臥薪嘗胆も岩瀬の強みとなった。
 

あの古田も

2019年もドラフト会議で指名された選手の何倍もの野球選手が、最後まで名前を呼ばれることなく涙したに違いない。トヨタ自動車からヤクルトに入団し、セ・リーグを代表する捕手となった古田敦也も、立命館大4年の時はドラフト漏れに泣いている。人生の回り道を吉ととらえられれば、ドラフト漏れにも必ず福がある。
(砂田 友美)