【ビジネス】経営哲学=秋山木工 時代錯誤と笑うことなかれ 丁稚制度が一流家具を生む①

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(写真はイメージ=iStock/DuncanL)

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。

 

秋山木工は迎賓館、国会議事堂、一流企業などで使われる特注家具を製作している。創業者であり、代表取締役社長の秋山利輝は、重厚感のある家具作りだけでなく、江戸時代に盛んだった丁稚制度、徒弟制度による職人育成で話題となってきた。住み込み、丸刈り、携帯禁止…。働き方改革の波に逆らう教育方針で、13年には研修生が技能五輪全国大会で金、銀、銅メダルを独占した。気休めの優しさは長期的視野に立てば、いったい誰のためになるのか。厳しいながらも、着実に職人と人間性を育て上げている自負がある。

 

 

 

通信簿はオール1

いわゆる”勉強”はまったくできなかった。中学を卒業するまで通信簿は「オール1」。1日2時間、特に国語と英語の授業では必ず立たされる劣等生だった。性格も引っ込み思案で、人前で話すと緊張してしまい、言いたいことの半分も言えなかった。「だけど、学年の200人中ただ1人、小中の9年間は皆勤。オール1で毎日立たされてばかりいたら、普通は学校なんか行きません。なのに、皆勤賞を取るってすごいと思いませんか」と自画自賛する。

自分の名前を漢字で書けるようになったのは、中学2年になってから。国語が苦手だったこともあり、実は65歳になるまで手紙を満足に書けなかった。起業してからのお礼状などは、口述で妻に書いてもらっていたという。

村一番の器用者

ところが、どんな人にも特技があるから人間はおもしろい。学校の成績はビリでも、不思議と手先だけは村で一番器用だった。

聖徳太子生誕の地といわれる奈良県明日香村の実家は村一番の貧乏。秋山は小学4年から新聞配達のアルバイトで家計を支えた。毎日の食事に困り、近所へ米を分けてもらいに行くこともしばしばだった。

八畳一間のボロ家だった自宅が雨風で吹き飛ばされそうになると、いつも秋山が家を修繕した。そのたびに、近所のおばちゃんたちから「あんた、上手にやるね」と褒められ、褒められついで棚を作ってあげたり、雨戸の修理を頼まれたりしていた。

中学2年の時には、2階建ての鶏小屋を作製。鶏が産んだ卵が2階からコロコロと転がってくる仕組みの画期的な小屋だった。図工の宿題で「船を作る」がテーマだった時は、いかだのような船が教室に並ぶ中、秋山だけは黒塗りで大砲付きの軍艦を作った。

 

最大の発見は「自分がアホ」

「手に職があれば強いよ」

地元のおばちゃんたちに言われ続けた言葉は、秋山の原点となった。中学卒業後は、大阪の注文家具店に弟子入りした。当時の大阪でも丁稚制度はほとんど消えていたため、秋山が最後の最後の「ザ・丁稚」。入社3年間はひたすら使い走りだった。

入門するまでは「村一番の器用者」と言われていた秋山だが、先輩にはまったく歯が立たず、現実社会では通用しないという壁にぶち当たる。3年が過ぎた頃、「自分は職人になんかなれない!」と親方の前で号泣したこともあった。しかし、「オール1の自分が他に行くところなんてない。もうひと踏ん張り、がんばろう」と心に誓ってから自分でも驚くほどの速さで技が上達した。入門から丸5年で職人になることができた。
 
「それまでは頭のどこかに村一番の器用という意識があったが、親方の前でボロボロと泣いた瞬間、プライドを捨て去った。以来、『そんな小さなことまで』と思われるくらい、兄弟子たちに何でも質問して教えを受けるようになった」という。素直に質問することが、上達への近道だった。

22歳で月給100万円

22歳の時に、現在の金額で月100万円を稼げる職人になっていたが、秋山は親方のもとを離れた。多くの家具店に出入りしているうちに、優秀な職人と接し「世の中は広い」と実感するようになっていた。「ここにいたら親父さんを超えられないし、日本一にもなれません。辞めさせてください」と親方に申し出て、伊丹市にある家具店に移籍した。ここでも新しい親方の自宅に住み込んだ。
(②につづく)  

 

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