【経営哲学】いきなり!ステーキ 一瀬邦夫社長 ピンチの後にチャンスあり! 出店しすぎてもへこたれない①

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(写真はイメージ photoAC/かずなり777)

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。今回は「いきなり!ステーキ」を運営する株式会社ペッパーフードサービス・一瀬邦夫社長について紹介する。

手軽に厚切りステーキを堪能できる「いきなり!ステーキ」が窮地に立たされている。2013年の1号店オープンから3年足らずで100店舗達成、17年から19年11月までには店舗数を4倍に増やしたが、既存店売上高は18年に急降下。20年1月までに、全体の1割に当たる44店舗が閉店することを発表した。創業者の一瀬邦夫社長にとっては正念場だが、同社長の“出店しすぎてピンチ”はこれが初めてではない。数々の難題に向き合ってきたステーキ人生をのぞいてみると、今回も逆境をはねのけてしまうような気がしてくる。

 

 

 

母への思いが原動力

母親思いの優しい息子だった。一瀬の最愛の母・やゑさんは、12年に98歳で他界した。女手一つで息子を育て上げ、長寿を全うした形だが、体は決して強くなかったという。「おふくろは体が弱かったから気になってね。朝ごはんを作ってから、私は学校に行くんですが、大丈夫かなっていつも気にしていました」。息子と生きていくために体を押して働きに働き、病気で寝込むこともしばしば。映画へ出かけたのに、母が心配でクライマックスを観ずに帰ってきたこともある。

母1人子1人。少年時代の一番の思い出は、学校から帰宅すると6畳1間のアパートで母が割烹着をかぶって温かい食事を作ってくれたこと。次第に、体の弱かった母に代わって、一瀬が料理をするようになった。   「味噌汁はこう作れとか、魚はこう焼くんだよとか。そういや、あの時おふくろから料理を教わったことで、私の飲食人生は始まったのかもしれない」と振り返る。母親を喜ばせたい。母親を楽にしてあげたい。母に対する一途な思いが、一瀬にとってはすべての原動力となっている。

メニューに「人肉入り」で人気店?

  高校卒業後から洋食レストランやホテルでコック修行に励み、27歳だった1970年に独立に踏み切った。「いつまでも人に使われてはいけない」という母の一言が背中を押してくれた。初めての店は、東京の下町・向島に開いた「キッチンくに」。6坪12席のステーキ屋だった。

しかし、当時のステーキはまだまだ高級品で、店では閑古鳥が鳴いた。「ステーキというだけで、敬遠されてしまうような時代だった。そうかと気づいて、とにかく目に付くところにメニューと料金を載せた看板を掲げました」。オープン当初、「にんにく」を仕入れると、伝票に「人肉」と書いてあったことから、メニューに「にんにく入り」をあえて「人肉入り」と表記して客を笑わせた。出前のバイクに店名、電話番号などを書いたのぼりを立てて走り回って宣伝したこともある。価格さえわかれば、あとは客が財布と相談すればいい。一瀬の気転により、良心的で、おいしいステーキの店があるとたちまち人気店となり、数年後には4階建ての自社ビルを建てるまでに成長した。

亡き夫人の生命保険金で従業員の給与を…

  このまま順風満帆なステーキ物語――とはいかないから人生は奥深く、おもしろい。経営が軌道に乗ってからも、一瀬は波のように押し寄せてくる事件や難題と向き合うことになる。「キッチンくに」の創業当初、従業員が1年以内に何人も辞めてしまう事案が発生した。辞める原因を突き詰め、自分にその理由があるという考えに行きつく。「1店舗では、従業員は出世できない。不満が出るのも当たり前」と考え、多店舗化に乗り出した。後に亡くなった先妻・アキ子さんと二人三脚で始めた「キッチンくに」「ステーキくに」を直営4店舗まで増やした。

ところが、一瀬が50歳だった93年、税理士から「この会社、本当に潰れますよ」との指摘を受ける。翌月には通帳の残高がゼロ、しかも一瀬が投入できる資金も尽きていた、という悲惨な状態だった。実はこの時期、従業員の給与を支払えない時は、自己資金を投入していた。アキ子夫人が91年に亡くなった後は、生命保険金の3000万円をつぎ込む有り様だった。
(②につづく=mimiyori編集部)

 

 

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