これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。
誰もが一度はお世話になったことがある宅配ピザ店「ピザーラ」。創業者・淺野秀則会長は1980年代によそいきの食事だったピザを各家庭で気軽に食べられるようにした先駆者だ。
イタリアンを大流行させたように、その生い立ちもオシャレ。100年超の紙器メーカー社長の3代目御曹司に生まれて慶應ボーイ、さらに大学時代から事業を起こすなど華麗な経歴を誇る……はずだったが、御曹司→貧乏→起業→大やけど→そしてまだまだ、という人生ジェットコースターを味わいながらピザーラを成功に導いた。
第2回は、どん底生活からピザに至った経緯について。
ピザ前夜…おつりすらないドン底生活
ウーロン茶の輸入販売は着眼点こそ良かったものの、時期が早すぎて失敗した。借金を返済すべく、見よう見まねでラーメン店を開業した。
しかし、手元資金がない状況だったため、食材はツケで購入するなど日々自転車操業。一番最初のお客さんのお勘定が200円で1000円札を出されたが、おつりすらなかったため、近所の店で両替してもらった。
その後、ラーメン店はそれなりに繁盛したが、「これは本当に自分がしたかったことなのか」と疑問を抱くようになり、店は人に任せて新たな仕事を模索した。健康食品、宝石の訪問販売、そしてレンタルビデオ店を始めたことも、商売を転々と変えながら、なりふりかまわず働き続けた。
あの名作映画でピザ店決意
82年公開の大ヒット映画「E.T」の冒頭で、主人公の少年エリオットが宅配のドミノピザを受け取るシーンをたまたま観てひらめいた。大学時代、ハワイで食べたピザの味も思い出し、これからの時代はきっともうかると可能性を感じた。
当時、すでに85年のドミノ・ピザなど米国の宅配ピザチェーン店が上陸していた。淺野はドミノ・ピザにフランチャイズ加盟を申し込んだが直営店限定だとして断られた。それをきっかけに、今度は自分自身で日本人の口に合うピザを生み出す決意を固めた。
現社長の幸子夫人と2人で徹夜で生地をつくり、焼き、試作と試食を繰り返した。なかなか思う通りの生地ができない中、当時フランス大使館にパンを納めていた業者を調べ、現在も名店として名高い「浅野屋」に生地の製造を依頼。なんとか口説き落として協力してもらえることになった。
「ピザーラ」の名称はピザと〇〇の合体
87年、ついに日本で初めて日本生まれの宅配ピザチェーンをオープンさせた。店名は「ピザ」に日本が誇る強さの象徴「ゴジラ」を合体させて「ピザーラ」に決めた。紆余曲折を経て、淺野会長にとっては11度目の起業だった。
当初はレンタルビデオ店の一角をピザーラの事務所とし、わずか半畳ほどの小さなスペースであっても「食材には徹底的にこだわる」という信念を貫いた。
”生きたイースト菌”を使い、温度260℃の窯で6分焼き上げるスタイルを確立。サイドメニューも6分で調理可能となる工夫を凝らし、焼き立てを届けられるようにしたことで徐々に人気が広がり、97年には宅配ピザ業界のトップに成長した。
98年には日本人向けのピザとして「テリヤキチキン」をリリースした。さらに00年にたらこを使用した「タラモーダ」、02年には「エビマヨ」など大ヒット商品を生み出した。創業以来250種類以上ものピザを開発する中、最後にゴーサインを出すキーマンが幸子夫人だった。
「幸子チェック」がカギ
1つの商品を生み出すために、1000パターンの試作品をつくることもあるという。真摯に商品開発に向き合う中、幸子夫人は創業当時からすべての試作品をチェックしてきた。食べ飽きない味か、子どもたちに好かれる味かなど、さまざまな観点からすべての試作品を試食。連日かなりの量を試食するため、普段の食事は節制しているほどだ。
現在ではピザーラ専用のチーズをブレンドする工場まであり、マッシュルームは契約農家の国産、そしてオリーブオイルはイタリア産など味には強いこだわりを持っている。生地は創業当時からの付き合いである「浅野屋」で製造。その味を見極めた幸子夫人の内外に渡る支えが、一代で財を成す礎を築いた。
(第3回へ続く=mimiyori編集部)