【経営哲学】プロレスラー川田利明が学んだ ラーメン居酒屋10年で分かった「やってはいけないこと」①

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ラーメン居酒屋「麺ジャラスK」を切り盛りする川田利明(撮影・丸井乙生)


プロレスラー・川田利明がラーメン居酒屋「麺ジャラスK」を経営し、10年目に突入した。現役時代は全日本プロレスで故三沢光晴と名勝負を繰り広げたトップ選手だが、このラーメン店経営では数々の苦労を乗り越えてきた。「ラーメン店はやらない方がいい」と断言する川田は、なぜその結論に達したのか。"参考にしてはいけない経営哲学"を紐解く。第1回はラーメン居酒屋を立ち上げるまで。

 

きっかけは先輩の急逝

起業を志した時期は09年6月だった。長年所属した全日本プロレスから、フリーランスの選手となっていた。そんな時期、同年6月13日にプロレス界のトップスターで、プロレスリング・ノア社長兼レスラーの三沢光晴が広島大会で試合中の事故で急逝した。三沢は川田にとって高校時代からの先輩で、全日本プロレス入り後も名勝負を繰り広げた仲。三沢は川田のことを「どっちかと言えば嫌い」と言ってはばからなかったが、川田はずっと先輩を慕っており、切っても切れない間柄だった。

「高校1年の時からずっと、本当にずーっと……”この人がいるから”と思ってやってきた三沢さんが亡くなって。生きがいとして感じるはずのプロレスに対して、気持ちが薄れてしまった。別のことをやってもいいのかなとか、いろんなことを考えた。俺はこのままでいいのかと」

三沢光晴の存在は大きかった

2人の名勝負は、全日本プロレスの至宝「三冠ベルト」を争った三冠戦に集約される。その全試合は下記の通り。

<川田&三沢の三冠戦全試合>
1 92年10月21日(日本武道館)…三沢が勝利
2 93年7月29日(日本武道館)…三沢が投げっぱなしジャーマン3連発、その後タイガースープレックスで勝利
3 94年6月3日(日本武道館)…三沢が非常に危険なタイガードライバー‘91でフィニッシュ
4 95年7月24日(日本武道館)…川田が三沢に4度目の挑戦で、大会前に初フォールを奪ったが敗れた
5 96年6月6日(日本武道館)…三沢に5度目の挑戦も届かず
6 98年5月1日(東京ドーム)…川田が初めて「三沢超え」を果たす
7 99年1月24日(大阪府立体育会館)…川田が垂直落下式パワーボムなどで勝利も、試合中に右腕骨折して王座返上
8 99年7月23日(日本武道館)…2人による最後の3冠戦で、三沢が勝利

全日本初の東京ドーム大会となった98年5月1日東京ドーム大会では、寡黙な川田が勝利後に「プロレス人生で一番幸せです。今が」とマイクで話したことは語り草となっている。しかし、00年に三沢らが全日本から大量離脱してプロレスリング・ノアを設立。川田は全日本に残留し、道は分かれた。

その後、ノアの05年7月18日東京ドーム大会で5年ぶりに一騎打ちに臨み、プロレス界最高峰の一戦として歴史に名を残したが、三沢の急逝で対戦自体がかなわなくなった。

その後、出店の準備を進め、1回忌を前にした10年6月12日、世田谷区喜多見に「麺ジャラスK」をオープン。三沢の命日、1日前だった。

なぜラーメン居酒屋?

料理の原点は、足利工大附属高レスリング部の寮生活だ。1学年上の上級生は国体強化のためそれなりに人数がいたが、入学当時から川田の学年は自分だけ。1人で食事、雑用をフルでこなす日々が続いた。練習後は先輩1人と買い出しに行き、7~10人分の豚汁、鍋物など毎日料理をつくり続けた。

もちろん料理だけではなく片付け、雑用終了後にやっと就寝する日々だった。4時30分~5時に開始される朝練習前には起床。あまりのつらさに、学校の屋上に行っては自殺することを考えていたという。ちなみに、最上級生の3年になったら雑用から解放されると思っていたが、3年時に寮の方針が変わり、上級生も掃除などの雑用をすることに。

「俺はずっと貧乏くじを引く人生なんだよ」

高校卒業後は全日本プロレス入り。またもや新弟子として料理、雑用をこなす日々に突入した。ちゃんこ番を毎日のようにこなす中、理不尽大王の異名をとった故冬木弘道さんがよく手伝ってくれたという。軍隊式の寮生活で包丁を握り続けたこともあり、食材、味付けについて「こうやって、こうしたら、こうなるだろうな」という予測がつくようになっていた。

ついには、川田オリジナルのちゃんこ鍋を作成するまでに成長し、現在の看板ラーメンにもつながるカレーちゃんこを生み出した。プロレスの合宿所のちゃんこには、角界出身のプロレスラーが塩、味噌などそれぞれの“持ちネタ”があったが、川田はカレーで勝負。そのカレーちゃんこを食べた天龍源一郎の感想は「コノヤロー!こんなの作りやがって!豆腐が黄色いから、俺の目がおかしくなったのかと思ったじゃねえか!」。と言いながらも完食したという。

創業資金で四苦八苦 立地で大失敗

開店資金はプロレス時代の貯金で賄った。

「初めてのことなので、幾らくらいという予想はしていなかった」
主な内訳は下記の通り。

・貸店舗…約250万円
・厨房などの設備…300万円以上
・内装の直し…居抜きで約100万円
・券売機…「軽自動車が買えるくらい」

家賃は保証金を10カ月分入れるなど、通常の居住用賃貸物件とは初期費用の額が大きい。以前は博多もつ鍋店があった居抜きで借りたとはいえ、厨房の設備は非常に高額で予想以上だった。さらに、意外に高額だったものが券売機だ。

「すごく高い!小さいやつでも70~80万円するんだから」

川田が現在も悔やむ点として、立地の問題がある。場所は自宅から通いやすいこと、なじみのある土地だからという理由で選んだが、これが大きな間違いだった。

「全日の合宿所が近所にあったので、35年以上このあたりに住んでいるんです。やるからには仕込みから全部自分でやりたい。そのため自宅近くのここを選びました」


選んだ場所は成城学園前駅から徒歩14分。3台分の駐車スペースはあるが、駐車場代も地味に響いてくる。この場所において、かつて2年以上もった飲食店は麺ジャラスKだけで「2年以上ここで同じ店がやっているのは俺だけ」と胸を張るが、開業にあたって大きなビハインドとなった。(続く)