【経営哲学】ヨシダソース 吉田潤喜会長兼CEO 無一文から億万長者に! アメリカンドリームの体現者①

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(写真:photoAC/まやー)※写真はイメージ

番組取材で直接インタビューした経営者の方々についてまとめたコラム。今回はテリヤキソースの「ヨシダソース」を生み出した吉田潤喜会長兼CEOの第1弾です。

世界中で外出、外食が控えられている今、自宅で活用できるソースや調味料に注目が集まっている。ヨシダソースは「アメリカ生まれの日本の味」として米国をはじめ、日本、欧州、中南米、アジアで愛用されている万能調味料。京都市生まれの創業者、吉田会長兼CEOは明るく愛嬌たっぷりのキャラクターを武器にソースを売り上げ、現在はソース業界を超え、米国のビジネス界で活躍している。その生い立ちと起業の過程を知れば、コロナ禍による経済不安を少なからず抑制できるかもしれない。


 

 

 

「アーメン」のちサバイバル

戦後間もない1949年、7人兄弟の末っ子として誕生した。カメラマンだった父親の収入だけでは暮らせず、母親が1人で切り盛りする焼き肉店の収入を頼りに生活する家庭で育った。腹をすかせた7人の子どものいる食卓は、戦争そのもの。祖父の代から3代続くクリスチャン家系のため、食前は必ずお祈りをするのだが、「アーメン」と言い終わるや否や、おかずの争奪戦が始まった。

生活が貧しかった分、吉田の夢は大きく、希望にあふれていた。「将来、島を買う!」。時に、食卓を囲みながら叫ぶことがあった。その都度、姉たちは「潤喜が夢みたいなこと言っている」と笑った。一方で、母だけは「大きいのにしてや」といつも後押してくれた。

右目失明で“なにくそ魂”

3歳の時にアクシデントが起きた。自宅で遊んでいた際に右目に針が刺さる事故が起き、「失明」と診断された。右目が見えなくなった吉田は、「カタメ」などと言われていじめられることもあった。しかし、だからこそ「負けるわけにはいかん」「なにくそっ!」という気持ちが自然と培われていった。

どんどん強くなり、地元では「ごんたくれ」の愛称を得て、ケンカに明け暮れる日々。幼少時代から習っていた柔道、さらなる強さを求めて始めた空手からも、精神的、内面的な強さを得た。最近でも、この時期のことを振り返ると「こんちくしょう! 今に見てろ!」という思いが鮮烈によみがえってくるという。

64年東京五輪なのに米国に感動

 

 

 

そんな幼少時代から、日本語に吹き替えられた米国の映画やテレビ番組を見ることが好きだった。

米国を意識したきっかけは、62年のキューバ危機。自分たちの信じるものに向かってはっきりとした態度を貫く「アメリカ」という大国に興味を持ち始めた。2年後の64年東京五輪では、日本代表ではなく、首にメダルをかけた米国代表選手たちが右手を胸に当て、誇らしげに国歌を歌う姿に感動した。

吉田の米国に対する興味は、強い憧れへと変化していった。

渡米したものの…餓死寸前で2度入院

空手部が強かった立命館大学への受験失敗を機に、吉田は人生最大の決断をする。当時19歳。単身で米国に行くことを決めた。吉田家は猛反対したが、唯一、味方をしてくれたのが母親だった。内心は心配でたまらなかったはず。それでも、母はコツコツと蓄えていた大事な貯金とともに、近所に借金してまで工面してお金で往復航空券を買い、500ドルの餞別まで用意して吉田を送り出した。

シアトルに向かった吉田は「成功するまで帰らない!」と誓い、現地到着後に帰りの航空券を換金。クライスラー(プリモス)の中古車を購入して、その後の7、8カ月間は“自宅”とした。幸運にもすぐにガードナー(芝刈り業)のアルバイトを見つけることができたが、厳しい労働と安月給のため、餓死寸前の状態で2度の入院を経験した。

あわや強制送還も2度救われた

当時の吉田は、いわゆる不法就労者だった。同じ状況にあった仲間が移民局に見つかり、母国へ強制送還されたこともある。「いつか自分が…」と常におびえながら、アルバイトを続けていた。

初めての連行時には、幸いなことにガーデナーの元締めに救われた。2度目の連行時には、さすがに覚悟を決めたが、たまたま居合わせた移民局職員のマリアンヌという怖い女性(本人いわく「鬼ババア」)に助けてもらったという。2度の幸運を運で終わらせてはいけない。強制送還の危機から逃れるため、また自身に英語力をつけるため、吉田はワシントン州シアトルのハイライン・コミュニティー・カレッジに入学した。
(②につづく=mimiyori編集部)

 

 

 

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