【パラスポーツ】東京パラリンピックのレジェンド③~車いす公務員第1号・近藤秀夫氏

三重県 伊勢神宮 日本国旗 日の丸

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響で、東京五輪とともにパラリンピックも1年延期となった。

1960年に第1回パラリンピックがスタートして以来の非常事態だが、こんな時こそ偉大なる先人たちの活躍を知り、未来に目を向けるべきではないだろうか。

64年東京大会に出場した日本のレジェンドたちを紹介する。

第3回は車いすバスケやアーチェリーなど全6種目に出場した近藤秀夫氏。

 

 

 

炭鉱事故で脊髄損傷

2歳で実母を亡くし、12歳の時に父親を結核で亡くした近藤氏は、福岡県田川市の炭鉱で働いていた。

大きな災いが降りかかってきたのは16歳の時。

トロッコのレールを運ぶ最中の事故で脊髄を損傷した。

背中は「く」の字に曲がり、目が覚めた時は病院で寝たきり状態になっていた。

医師や病院スタッフらが数人がかりで曲がった身体を戻そうとした際に、あまりの激痛で枕を食い破ったことだけはしっかりと覚えている。

 

 

病院ではほぼ寝たきりの生活を余儀なくされ、退院後は大分県別府市の国立重度障害者センターへ移った。

元々は傷痍軍人向けの施設。

当時は「リハビリ」や「社会復帰」という概念がなく、のんびりとした刺激のない療養生活だったが、炭鉱生活よりも快適で自身は障がいを“強運”とポジティブにとらえていたという。

 

竹の弓矢とアーチェリー

 

そんな近藤氏に転機が訪れたのは20代後半になってから。

「オヤジ」と呼び慕うことになる中村裕医師が施設を訪ねてきた。

「日本のパラリンピックの父」と呼ばれる同医師は、東京五輪とあわせてパラリンピックを開催しようと奔走していた。

その東京パラリンピックの2年前に、2人は運命の出会いを果たした。

 

中村医師の誘いでパラスポーツを始めた近藤氏は、63年に結成した日本初の車いすバスケチームに参加。

翌年の東京パラリンピックでは、その車いすバスケを含め、陸上、アーチェリーなど全6種目に出場した。

アーチェリーはまったくの未経験だったが、「弓矢みたいなもの」と聞いて出場を決めた。

竹で自作した弓と矢を東京に持参したが、驚いた関係者に隠されてしまった。

試合当日になって初めて触れた本物の弓矢で本番に挑んだものの、矢がどこに飛んだかもわからなかったという。

 

日本のバリアフリー化に尽力

 

大会後、「自立」を決意した近藤氏は、10年を過ごした障害者センターを出て、東京の食品保存容器大手「タッパーウェア」の日本法人に就職した。

同社が結成した車いすバスケットボールチームのメンバーになり、合宿所暮らしで毎朝20キロのロードワークを日課とした。

1966年のチーム解散後も仕事を変えて競技を続けるが、「タイヤの跡がつくから」となかなか体育館を貸してもらえず、ようやく借りた新宿の体育館も入り口に階段があって車いすでは入れない。

都庁に通ってスロープをつくるよう訴えた。

 

これをきっかけに障がい者が生活しやすい町づくり活動に取り組むようになり、39歳の時に「緑と車いすで歩けるまちづくり」を目指していた町田市に職員として採用された。

当時、車いすに乗った公務員の「日本第1号」として話題になった。

主な仕事は、街に出て、障がい者の視点からさまざまな提案をし、「福祉環境整備要項」の作成に関わること。

95年の定年退職まで21年間、町田駅前のスロープやエレベーターの設置など、障がい者にやさしい町づくりに尽力した。

(mimiyori編集部)