千羽鶴に込められた思い
日本が初めて参加し、日本で初めて開催された1964年の第2回パラリンピックの開会式は、ある日本人男性の人生を劇的に変えた。
明仁皇太子(現上皇)と美智子皇太子妃(現上皇后)も出席した式には、車いすに乗って大きな千羽鶴を掲げる山田百穂(ももほ)さんの姿もあった。
富山市出身の百穂さんには、先天性の脳性麻痺があった。1960年頃からは、不自由だった手を動かすリハビリの一環として鶴を折り始めた。口で折り紙をテーブルに押さえつけ、なかなか思い通りに動かない手で懸命に鶴を折る。時に足を使うこともあったという。
64年に東京パラリンピックが開催されることを知ると、次第に千羽鶴を大会に寄付したいと思うようになった。息子の気持ちをつづった手紙を母親が大会組織委員会に送ると、百穂さんは開会式に招待された。
それまで近所にしか出かけたことのなかった百穂さんは「天国へと導かれるような思いだった」と言い、一躍有名人に。その後、健常者と障がい者の交流を促進させる団体を設立して、障がい者の自立支援に尽力した。
2005年に65歳で亡くなるまで、百穂さんは10万羽を超える鶴を折り続け、千羽鶴を障がい者のスポーツイベントに寄贈することをライフワークとした。
Paralympic Games公式=1964年東京パラリンピックの様子VTR
定番の陸上競技場ではなく…競馬場で開催
1976年のトロント大会では、それまで脊髄損傷だけだった競技参加者に、初めて切断の261選手と視覚障がいの187選手も加わった。
記念すべき大会の開会式が行われたのは、なんと1956年開設のウッドバイン(Woodbine)競馬場。オンタリオ競馬クラブの施設提供により、実現した。
約2万4000人の観客が見守る中、地元のダンサーや体操選手らが参加してのパレードが行われ、通常は競走馬が疾走するトラックを、車いすの選手らが楽しそうに入場行進した。
Paralympic Games公式=76年トロントパラリンピックの様子VTR
神田うのがダンサー出演
1998年の長野大会には、タレントの神田うのがバレエダンサーとして出演した。
作曲家の久石譲が総合プロデュースしたマスゲームは、野沢温泉村の道祖神火祭りがモチーフ。自然の中に生きる「星の里」と、文明の力を象徴する「火の郷」が聖火争奪戦を展開し、少女が争いをやめさせようと命をかけて聖火を守る、というストーリーで、フィナーレを飾る少女役の1人を、17歳までバレリーナだったうのが務めた。
ジャズトランペット奏者の日野皓正が君が代を吹奏。大会テーマソングの「旅立ちの時」を人気バンドTHE BOOMのボーカルだった宮沢和史が作詞作曲し、開会式本番では歌い上げた。
Paralympic Games公式=1989~2014年国際パラリンピック委員会(IPC)の歴史VTR
金メダリストが車いすごと空中点火
聖火と車いすの宙づりに世界が息をのんだ。
2008年北京大会開会式の最終ランナーは、陸上の走り高跳び選手だった侯斌(ホウ・ビン)。96年アトランタから3大会連続で金メダルを獲得している中国パラ陸上界のスターだ。
会場に入った侯斌は、聖火のついたトーチを自身が乗る車いすに装着。すると、地上60メートルの高さに設置された聖火台まで、車いすごとロープをつたい上がっていった。
引き揚げられたのではなく、自身の腕力だけで登った侯斌のすさまじいパワーに観客は驚嘆。点火の瞬間、会場は大きな感動に包まれた。
侯斌は9歳の時に交通事故で左脚を切断。競技の際は右脚だけで助走し、アトランタ大会では1メートル92センチの大跳躍を見せた。
Paralympic Games公式=2008年北京パラリンピックのVTR
義足美女とロボットのダンスが世界を魅了
両脚義足の軽やかなステップに観客の目がくぎ付けになった。
16年リオ大会の開会式では、女性ダンサーとロボットアームという異色のペアダンスが話題を呼んだ。この美女ダンサーが、14年ソチ大会のスノーボードで銅メダルを獲得した米国代表、エイミー・パーディーだったことでも注目された。
パーディーは19歳の時に、細菌性髄膜炎を発症。脾臓摘出、腎臓移植、そして両膝から下を切断した。
両脚を失っても大好きだったスノーボードをあきらめず、手術の7カ月後にはゲレンデに復帰した。パラスポーツにとどまらず、モデルやダンサーとしても活躍し、マルチな才能を発揮している。
(mimiyori編集部)
Olympic公式チャンネルで紹介された、16年リオパラリンピック開会式のエイミー・パーディーVTR