シャワー派か、湯船派か。
これは、長年決着のつかない論争であり、家族内でも意見が分かれるところだろう。
シャワーは時短にもなるし、のんびり湯船に使っている暇はない。毎日お湯を張り替えるのは面倒だし、経済的にも…。
という声がシャワー派から聞こえてきそうだが、日本人は古来から湯船に日々浸かって心を癒してきた。
では、その湯船はなぜ、湯「船」というのか?
湯船派でも、普段何気なく浸かり、気持ちよくなったところで上がり、その後は見向きもしない湯船に、少しは愛着が持てるかもしれない。
四大文明でも”大浴場”
浴室や大浴場自体は、紀元前から世界に遺跡が残る。
紀元前3500年~3000年に栄えた世界最古の文明・メソポタミア文明にもあったとされ、紀元前2500年頃からのインダス文明では都市遺跡「モヘンジョ=ダロ」では、深さ最大約2.4メートルの大浴場遺跡が有名だ(上写真)。
しかし、これらは儀式としての沐浴であったと推測されている。いわゆる「風呂」では、紀元前753年に始まったとされる古代ローマに、漫画を原作とした映画「テルマエ・ロマエ」でおなじみとなった公衆浴場の遺跡を現代も見ることができる。
世界最古の浴槽はギリシャの女王が使用
そもそも湯船の起源はいつなのだろうか。
大浴場ではなく個別使用の湯船=浴槽は、現在見つかっている世界最古は紀元前1700年ごろのもので、ギリシャのクレタ島にあるクノッソス宮殿から出土した。テラコッタ(焼き粘土)製で、女王が使用したといわれている。
紀元前1700年ごろのクレタと言えば、クレタ文明・青銅器文明の真っただ中、ちょうど線文字Bが生まれたという内容を世界史で学んだ記憶がある。
かの昔の文明に生きた女王もお風呂でリラックスされていたと想像すると、親近感をもたずにはいられない。
日本でも古来から風呂文化
風呂自体は仏教と時を同じくして伝来し、蒸し風呂が主流だったとされる。寺院には庶民に対し、風呂を開放する「施浴」も行われていたとか。
一方、飛鳥時代には舒明天皇が有馬温泉に9~12月にわたって入浴したという記述が日本書紀に残っている(写真)。
平安中期までには「浴槽」登場
そして、平安時代には日本でも「浴槽」が姿を見せ始める。
平安中期に編纂された書物「延喜式」に、朝廷で使用された木製浴槽の記録が残っている。寸法も記されているほか、下記写真のように思いっきり「浴槽」と書いてある。
鎌倉時代には、現在の浴槽に近い形の「鉄湯船」が登場。京都・成相寺、奈良・東大寺に重要文化財として収められている。
ただし、使用方法は鉄湯船にお湯を注ぎこみ、周囲に置いたスノコの上で人間はかけ湯をするスタイルだったといわれている。この湯船に入ることは熱伝導率を考えても、底に足場を作ったとしても、やけどと隣り合わせだからそうなのだろう。
同じ鎌倉時代である1193年(建久3年)には、同年3月20日の「吾妻鏡」によると、崩御した後白河法皇の追福として民に100日間風呂をつかわせたという(写真)。
こちらもサウナのような蒸し風呂と考えられており、まだ「湯船」派の天下統一は遠かった。
(続く=mimiyori編集部)