シャワー派か、湯船派か。
これは、長年決着のつかない論争であり、家族内でも意見が分かれるところだろう。
シャワーは時短にもなるし、のんびり湯船に使っている暇はない。毎日お湯を張り替えるのは面倒だし、経済的にも…。
という声がシャワー派から聞こえてきそうだが、日本人は古来から湯船に日々浸かって心を癒してきた。
では、その湯船はなぜ、湯「船」というのか?
湯船派でも、普段何気なく浸かり、気持ちよくなったところで上がり、その後は見向きもしない湯船に、少しは愛着が持てるかもしれない。
今回の後編では、「ゆぶね」自体の語源、そして江戸時代に存在した「湯の船」について。
平安時代までに「お風呂に入ってお泊り」はあり
前編では鎌倉時代に「鉄湯船」が登場したことを紹介した。
鎌倉時代に著されたといわれる重源上人の「南無阿弥陀仏作善集」に「在鉄湯船」と記されており、同時代には既に「湯船」という文字があったことが分かる。
さらにさかのぼってみる。
平安時代では、藤原宗忠が著した「中右記」にお風呂にまつわる記述が複数散見される。
承徳2年(1098年)12月に高貴な身分の人物を訪ねたところ、その人が自邸で「湯治」を行っていたため会えなかった、大治4年(1130年)2月には「一條湯屋」で1泊した……。
「一條湯屋」は京都の一條という地域にある入浴宿泊施設とみられ、この時代の都・京都では、前編で紹介した舒明天皇の有馬温泉長期滞在以外でも、「お風呂に入って泊まる」という行為が存在したと思われる。
「ふね」は液体を入れる容器
日本で最初にその言葉が登場した古文書がリスト化された「日本国語大辞典」によると、「湯船」は平安時代の事典「和名類聚抄」に「由布禰」として記されている。
また、同時代のうち約200年を記した栄花物語「玉(たま)の台(うてな)」においては、僧侶が20~30人、「ゆぶねの湯わかしてーー」という記載も。
少なくとも、平安時代には「ゆぶね」という音を発する言葉はあり、鎌倉時代までに「湯船」の字があてられるようになった、と考えられる。
もともと「ふね(舩)」には、「液体を入れる容器」という意味もあり、その意味合いで使用された「ふね」は奈良時代の「古事記」にも登場する。
つまり、当初は「お湯を入れた大きな入れ物」として「湯船」の文字があてられたのではないだろうか。
そうこうするうちに江戸時代 銭湯文化が花開く
平安時代の書物に風呂関連の言葉が見られるように、京都では古くから銭湯文化があったという。
江戸に銭湯が持ち込まれた時期は、まさに江戸時代直前のこと。
江戸時代の文化、風習が描かれた「慶長見聞集」によると、天正19年(1591年)、三重県出身の商人・伊勢与市が現在の大手町にあった銭瓶橋(ぜにがめばし)のたもとに銭湯を開いたとか。
その後、江戸の街は世界的に見ても水道がかなり整備されていくとはいえ、一家にお風呂1つはまだまだぜいたくなこと。江戸中期以降は、銭湯が街にひしめき合うようになる。
湯船という「船」が登場~もしかしてダジャレだった?
ゆぶね=湯船となった決定的な出来事が、「湯の船」の誕生だったという見方もある。
お風呂の需要が高まる中、お風呂に入りづらい地域に住んでいる人たちにも楽しんでもらおうと、まさに湯の船こと「湯船」が始まったという。
当時の江戸は水運の時代。地方から海産物や木材などを積んだ船が行き来し、運河や水路が巡らされていた。
最初は行水をウリにした船だったというが、船の中に浴槽を装備し、移動式銭湯の「湯船」が始まった。
湯船という言葉自体は以前から存在したことは前述の通りだが、あえて「湯の船」をしつらえた心意気は、まさかと思うが、ひょっとしてもしかしたらダジャレだったのかもしれない。
今では湯船という言葉のみが残っているが、お湯に浸かって癒される気持ちは、時を超越する。
きょうの夜は湯船につかり、歴史に思いを馳せてみては。
(終わり=mimiyori編集部)