卒業生が母校のユニークな側面を語るコラム5校目は、本州最北端の青森県そのままの名前、県立青森高校について。
2020年で120周年を迎える旧制中学ナンバースクールで、地元の通称は「青高(せいこう)」。県内では進学面において“御三家“と呼ばれる。
有名どころでは小説家・太宰治、劇作家・寺山修司を輩出し、1966年ピューリッツァー賞を受賞した報道カメラマンも卒業生だ。
40代OGが語るため現況と時差はあるが、根底に流れる「自律自啓」の精神は時代を超えても変わらない。
連載1回目では校歌、我が道を行く卒業生を紹介した。
2回目の今回は、甲子園にあと一歩迫り続けた硬式野球部について。
意外と強い古豪
進学校でありつつ、意外と硬式野球部が強い。
2020年秋は県4強進出を果たした。
創部は1900年(明治33)年と歴史は古く、県勢初の夏勝利を挙げた1960年(昭和35)までに夏4度の出場を果たした古豪だ。
直近では2014年センバツの21世紀枠に、03、06年大会に続き3度目の推薦を受けたことがある。
多くのOBは思っているだろう。
「もし、甲子園に出たら寄付金を出すぞ」
それなりの地位にいる卒業生も多い。集まれば、かなりの金額になるはずだ。
とはいえ、長年甲子園には出場していない。
卒業生としては、寄付金の気持ちを握りしめたまま、立ち尽くしている状況が続いている。
筆者の在学中は出場の気配はなく、社会人となってから機会は訪れた。
平成以降、夏の県大会決勝に進出すること2度。
同じ数だけ夢を見せてもらった。
しかし、決勝の「あと一歩」が届かなかった。
隣の進学校は61年ぶり出場…美酒に酔う上司
2000年、当時勤務していた新聞社の仕事で夏の甲子園取材に出掛けた。
その大会では、北海道の進学校・札幌南が61年ぶりの甲子園出場を果たしていた。
札幌南出身の上司がプライベートで応援に来ていると聞き、いわゆる“アルプス取材”のついでに様子を見に行った。
取材したい相手を大勢の中から探し出す、記者ならではのミッション「ウォーリーを探せ」状態にも、記者5年目ともなれば慣れた時期だった。
上司を発見した。
顔が赤い。積年の思いで感動しているのかと思ったら、アルコールで出来上がっていた。
うらやましい。
私は生きている間に同じ思いはできないかもしれない。
そう思っていた矢先、後輩たちはやってくれた。
2001年県決勝~打球は中堅手の頭上を越えた
翌2001年。長身の好投手・三浦を擁して決勝進出を飾った。甲子園に出場すれば、実に41年ぶりとなる大チャンスだった。
準決勝に進んだ時点で、同期の友人と「寄付金、出さねばまいね」と話し合った。
一口1万円かな、ボーナスが出るからもっと出そうかな、いや大丈夫かな……。
心境としては、「財布開いて待っちゅうはんで、おめだぢ何とかしてけえ」。
決勝の試合は仕事で観戦できなかったため、現地の球場に親を派遣。速報代わりとした。
結果は、8年連続で決勝に進んだ当時の光星学院(現・八戸学院光星)に1-3で惜敗した。
1点を追う8回、2死三塁。相手打者の打球が外野へ飛んだ。
我が軍の中堅手は一瞬、動きを止めた。
彼はすぐさま翻って駆けだすと、打球はその頭上を越えていった。
6回2死一、二塁では、同じ打者の打球が風に乗って中越え2点二塁打となっていた。
その残像があったのかもしれない。目測を見誤らなかったとしても、難しい打球だったのだろう。
ニュースで繰り返し見た光景は、6回だったのか8回なのか忘却の彼方だが、本当にいい夢を見させてもらった。感謝したい。
津軽衆は間が悪い
数年の時を経て、「青森高校のやつが入社してきたぞ」と聞きつけた。
あいさつに来た本人に、高校時代の部活動を聞いたところ「硬式野球部です」。
脳内で年齢を数える。
「決勝に行った時の代か。守備位置はセンターじゃないだろうな」
「……はい、そのセンターです」
「おめえか!」
先の感謝はどこへやら。
人生、巡り巡ってどう出会うかは分かったもんじゃない。
しかし、胸を張ってほしい。
君たちが18歳の年に成し得たことが、今でも人々の記憶に残っている。
生きた証を多くの人が知っていてくれること。
その経験を持てる人は、世の中それほど多くない。
(つづく=丸井 乙生)