いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。
ロスの名誉市民
世界のセレブに愛された日本人だった。
1932年ロサンゼルス五輪の馬術・障害飛越で金メダルを獲得した西竹一の愛称は「バロン(男爵)・ニシ」。生まれながらの爵位と華麗なる手綱さばき、さらには天真爛漫な人柄から、欧米の上流階級の間ではすでに五輪前から有名人だった。
そんな西が、ロス五輪の花形種目で出場11人中、完走はわずか5人という難コースを愛馬「ウラヌス号」とともに優勝したものだから、人気は沸騰。日本だけでなく、米国の新聞も大きく報じ、ロサンゼルス市議会からは名誉市民の称号まで贈られた。
荒馬で車を飛び越えた
1902年7月、西は薩摩藩士・西徳二郎男爵の三男として、東京市麻布笄町(現港区西麻布)に生まれた。
幼少時代に馬と出合って馬術にのめり込み、陸軍騎兵学校へ進んで馬術を本格的に基礎から学んだ。宝島社新書『日本の金メダリスト142の物語』によれば、荒馬であっても根気よく調教して自在に乗りこなすことができ、自身のオープンカーを飛び越えさせたという逸話を写真とともに残している。
ロス五輪で一緒に金メダルを勝ち取った相棒のウラヌス号は、イタリア留学中だった騎兵学校教官から情報を聞きつけて直接現地で購入した。
その後、西はすぐに帰国せず、ウラヌスとともにイタリア、フランス、ドイツなど欧州各地の競技会を転戦。ここでの活躍がバロン・ニシの名を広め、五輪制覇の土台となった。
硫黄島で散る
西は36年ベルリン五輪にも出場したが、同大会での成績は低迷。40年に予定されていた東京大会への出場も目指したが、こちらは戦争の悪化で大会の開催が幻に終わった。
45年、派遣されていた硫黄島にて戦死。「バロン・ニシ」を知る米兵から何度も投降するよう促されたというが、最後まで拒否したと伝えられている。4
2歳という若さで戦場に散った西は、悲劇の金メダリストとして語られることが多いが、日本人で五輪馬術競技の金メダルを獲得しているのは、後にも先にも西だけ。そのメダルと人生の輝きが失われることはない。
(mimiyori編集部)