【五輪金メダリスト連載】盟友に先を越された金メダルは”代役”で手中に~1932年ロス五輪陸上競技・南部忠平

 

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

宿敵同士の対決というのは、今も昔も盛り上がるものだ。

 

2021年1月17日に行われた卓球全日本選手権・女子シングルス準決勝の伊藤美誠VS早田ひなの戦いもしかり。

2020年12月13日の柔道男子66キロ級・東京五輪代表決定戦、阿部一二三VS丸山城志郎の熱戦もしかり。

 

今からちょうど100年ほど前にも、ともに切磋琢磨し、戦前の日本陸上界を牽引した2人が名勝負を繰り広げていた。

「三段跳び」を日本のお家芸とまで言わしめた、織田幹雄と南部忠平だ。

日本における夏季五輪142個の金メダルすべてを書ききる本連載では今回、ライバルから遅れること4年、1932年ロサンゼルス五輪金メダリストとなった南部忠平に迫る。

 

 

 

 

早稲田スポーツの先駆者2人

南部忠平は、北海道札幌市の造り酒屋の四男として生まれた。

小学生の頃は乗馬・水泳・スキーを、旧制中学では陸上で頭角を現すなど、類まれなる運動能力の持ち主だった。

そんな彼を世間が見逃すはずもなく、中学卒業後に一旦は札幌鉄道局に就職した南部を、早稲田大学競走部がスカウトした。

 

1925年、そこで運命の出会いを果たす。

のちに「陸上の神様」「日本陸上界の父」と呼ばれる織田幹雄が、パリ五輪・日本陸上初の入賞という華やかな経歴を手に入部してきたのだ。

入部1年違いの2人が仲良くなるのに時間はかからなかった。 

 

目の前で盟友が金メダリストに

初の五輪対決では、織田に軍配が上がった。

それは、1928年アムステルダム五輪でのこと。

南部は初出場にして、三段跳びで4位という立派な成績を残していた。

しかし、同じ種目で織田の優勝という成績にはかなわない。

南部は、日本人初の五輪金メダリストの誕生を目の当たりにするのだった。  

 

予想外の三段跳び“代役”で金メダル!

 

 

 

その後2人は、それぞれ別の会社の新聞記者となり、仕事でも競技でも切磋琢磨する日々を送っていた。

そうして1932年ロサンゼルス五輪。

4年前の悔しさを胸に迎えた2度目の五輪対決…かと思いきや、予定では、南部が走り幅跳び、織田が三段跳びに出場することになっていた。

それぞれ金メダルが期待される中、戦いは誰も予想できない結末を迎えた。

 

まず、南部が走り幅跳びで銅メダルに終わったこと。

次に、大本命の織田が本番直前にけがをしてしまったため、急きょ南部が三段跳びに出場したこと。

そして、その三段跳びで南部が金メダルに輝いたのだ。 

 

走り幅跳びでも 三段跳びでも世界新記録樹立

それも世界新記録15メートル72での金メダルという偉業。

日本の人々の期待を、いい方向に裏切ってくれた。

 

五輪の前年1931年には、走り幅跳びでも7メートル98の世界新記録を樹立していた。世界一の “二刀流”として名を馳せたのだった。

 

その後は後進の指導にあたり、64年東京五輪では日本陸上チーム監督も務めた。

そして迎える2度目の東京五輪、彼の精神を受け継いだ若者たちの活躍に期待したい。 

(mimiyori編集部)

 

 

 

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