三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)
メルボルン五輪の雪辱を2つ同時に果たすこととなった。
1960年ローマ五輪・体操男子団体で悲願の金メダルを獲得した後、挑んだ個人・徒手(ゆか運動)でも、相原信行は見事2個目の金メダルを獲得した。
56年のメルボルン五輪では、団体・個人ともに銀メダルに終わり、4年間ただひたすら金メダルだけを追い求めてきた。
朝から晩まで体育館にこもり、自身の大技「片手倒立」を極限まで極めた男の執念が実った瞬間であった。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
片手倒立で会場も世界も魅了
体操男子団体で悲願の金メダルを獲得し、仲間と肩を抱き合い、男泣きで喜んだのも束の間、相原には次の大舞台が待っていた。
4年前、こちらも惜しくも銀メダルに泣いた、個人種目別・徒手(ゆか運動)だ。
勝負は冒頭で決まった。
相原が努力の末に編み出した、左の手のひらだけで逆立ちする「片手倒立」をいきなり繰り出したのだ。
会場の視線は、すくっと立った白いユニフォームにくぎ付け。
審判は揃って9.800点を出すほどの完璧な演技だった。
O脚はパッドを付けて克服・24時間体操のことを考えた
文字通り、「朝から晩まで」体育館にこもり、練習を重ねてきた。
どんな姿勢からでも倒立できるように、またバランスを崩しても立て直せるように、さらに左手だけで立ち上がれるように、技を練り上げてきた。
また審判からの見え方も意識し、自身のO脚を綺麗に見せるべく、自作のパッドを膝の内側に当てて演技した。
当然、今あるような精度のいいサポーターとは全く異なり、ただ見栄えを追求したものなので演技への支障もあったが、弱点をアイデアと努力で補うことに余念はなかった。
日本初!両親・子どもが五輪メダリスト
ローマ大会後、62年の世界選手権でも金メダルを獲得し、63年に結婚した俊子夫人と共に夫婦揃っての64年東京五輪出場を目指したが、相原は最終予選で落選した。だがその結果を真摯に受け止め、妻と代表選手団のサポートに徹し、見事俊子夫人は体操女子団体で銅メダルを獲得した。
さらに28年後の92年バルセロナ大会では、次男の豊が、体操男子団体で五輪に出場、銅メダルを獲得し、日本で初めて両親&子どもの五輪メダリストとなった。
息子たちが指導を受けたのは、相原が79年に群馬県の自宅敷地内に建てた相原体操クラブであった。
父親から受け継いだ家業と、大学での指導、さらに体操クラブでの指導と多忙な毎日。
94年に脳梗塞で倒れてからも最後まで体操の指導はやめなかったという。
まさに体操一筋、体操を愛し体操に愛された人生だった。
(mimiyori編集部)