【五輪金メダリスト連載】ソ連にリベンジ!時代遅れから体操王国へ~1960年ローマ五輪・体操男子団体

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

「時代遅れ」と言われた日本の逆襲が始まった。

 

1960年ローマ五輪で、体操男子団体は4年越しの悲願の金メダルを獲得した。

56年のメルボルン五輪では、1.85点に泣き銀メダル止まりであった。

しかし、竹本正男・小野喬・相原信行・遠藤幸雄・鶴見修治・三栗崇の6人全員が死力を尽くし、金メダルを勝ち取ったのだ。

以後、日本は「体操王国」として世界に名を轟かせることとなる。

 

金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

 

 

 

 

  

時代遅れ…四半世紀で世界に追いつき追い越し

 

一致団結で金メダルを勝ち取った。

 

56年メルボルン五輪では、ソ連に1.85点及ばず銀メダルに泣いた。

だが一昔前を思い起こせば、日本が銀メダルを獲得したこと自体、奇跡に近かったのだ。

 

それは、日本男子が初めて国際大会に出場した32年ロサンゼルス五輪のこと。

海外の選手たちは、日本の練習を不思議そうに眺めていた。

それもそのはず、日本選手の技は1900年代に流行ったものだったからだ。

「時代遅れ」のレッテルを貼られた日本の体操、そのイメージを一新するのは簡単なことではなかった。


 

ソ連にリベンジ!独創性で世界を切り開く

あれから28年。

60年・ローマ五輪、日本は独創性に富んだ自由演技で世界を驚かせた。

既定演技でソ連を1.02点リードし、さらに自由演技で突き放し、2位のソ連に2.50点の差を付けて、悲願の団体金メダルを獲得したのだ。

日中戦争・第二次世界大戦・出場禁止と不遇の時代を乗り越え、勝ち取った世界一の称号であった。

 

 

個人の金より団体の金!20年越しの悲願達成

 

 エースの小野は、種目別の競技前日に風邪をひいており、団体の前に行われた個人総合では、大技を回避して銀メダル。

全てを団体に注ぐ覚悟で臨んでいた。

 

40歳で出場した竹本は、40年に予定された東京五輪に出場する予定も、五輪自体が中止に。戦後、52年ヘルシンキ大会で念願の五輪初出場を果たした。御年33歳であったが、跳馬で銀メダルを獲得。

4年後の56年メルボルン五輪では、個人種目のつり輪、鉄棒、平行棒で銅メダルを獲得し、残すは金メダルだけであった。

 

この6人が、1人でもどこかで諦めていれば、金メダルは幻だったかもしれない。

日本が、体操王国として現在の位置にまで上り詰める礎を築いてくれたのは、60年前のヒーローたちだということを心に留めておきたい。

 


(mimiyori編集部)

 

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