陸上競技・三段跳びは日本のお家芸だった。
1928年アムステルダム五輪の織田幹雄、32年ロサンゼルス五輪の南部忠平。
2人に続き36年ベルリン五輪で日本人3連覇の最後を飾ったのは、田島直人だ。
三段跳びの黄金期を築き、40年東京五輪で勇姿を見せるはずだったが、戦争の影響で大会自体の開催に至らなかった。
しかし、戦前の輝かしい栄光は田島によって受け継がれ、未来のメダリストに託されている。
名前を冠した大会は今もなお
山口県で行われ、2020年に17回目を迎えた「田島直人記念陸上競技大会」。
田島は山口県出身かと思いきや、1912年大阪府に生まれている。
その後、父親の郷里だった山口県岩国町(現・岩国市)に一家で戻り、育った。
文句なしの順風満帆な競技人生だった。
旧制中学で陸上競技部に入部。
旧制山口高等学校(現・山口大学)時代には、現在のインターハイに相当する大会で走り幅跳び、100メートル走で優勝。
32年全日本選手権では三段跳びで優勝、走り幅跳びで2位。
同年ロサンゼルス五輪では、走り幅跳びで6位入賞を果たした。
36年ベルリン五輪で、三段跳びで優勝。
つまり「インターハイ優勝」「全日本優勝」「初出場の五輪で入賞」、そして2度目の五輪で金メダルに輝くのだ。
飛躍!16メートル時代を切り開いた先駆者
36年ベルリン五輪で樹立した三段跳びの世界新記録16メートル00は、史上初の16メートル時代を切り開く驚異的な大記録であった。
五輪記録映画「民族の祭典」の監督に、「あなたの三段跳びは跳躍ではなく飛躍」と言わしめるほど。
また走り幅跳びでも7メートル7で銅メダルを獲得し、戦前最後の五輪を華々しく飾った。
64年東京五輪ヘッドコーチ 引退後も五輪に関わる
現役引退後は指導者として選手育成に尽力し、56年メルボルン五輪は日本代表コーチ、64年東京五輪では日本代表ヘッドコーチを務めた。日本オリンピック委員会常任委員・日本陸上競技連盟の理事などの要職も歴任し、陸上界の発展に寄与した。
岩国市名誉市民となった90年に78歳で亡くなってから14年後。
「織田幹雄記念陸上競技大会」は広島市で、「南部忠平記念陸上競技大会」は札幌市において開催されていたのにならい、山口県でもその功績をたたえ「田島直人記念陸上競技大会」が開かれるようになった。
未来の金メダリストが山口から出現し、「飛躍」することを期待したい。
(mimiyori編集部)