2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は「手先が器用な話」後編。
父と一緒にWi-Fi工事をしながら、現役時代の思い出が頭をよぎった。
2003年全日本選抜体重別選手権60キロ級に減量失敗で出場できなかったことを振り返る。
あと1~2キロが落ちなかった
チャンピオンになれる前、1つ下の階級で勝負していたんです。
野村忠宏さんに勝って日本代表になり、チャンピオンになることだけに意味を感じていたから、強くなりたい気持ちでするトレーニングと体重のバランスが取れなかった。
斉藤仁先生がダメだダメだと言いながら、僕ばかり試合に使ってくれる期待のバランスも取れなくなって、最後はあと1~2キロ――夜中に福岡・博多のいろんなところを走りまくって、サウナに行き、ホテルの風呂に浸かり、また走り、最後は落とせなくてあきらめて。
計量の数分前、ベッドに横になりました。
すべてが終わった
ヘッドホンをつけてバスタオルを顔に巻いて。
ドアも、先生は絶対にホテルに来て開けるから、内鍵を閉めて。
身を縮めて寝ていました。
計量が始まったなあ。
終わったなあ。
気を失いたい。
けど眠れない。
そんな時にドンドン叩く音。
叫ぶ声。
「内柴!生きてるか?」
限界まで減量した痕跡
「おーーーい、内柴ぁー。生きてるのか? 返事だけでもしてくれ。頼む」
必死な声に起き上がり、ドアを開ける。
斎藤仁先生と担当コーチが入ってくる。
ベチャベチャなバスルームのドアが開いている。
減量着も、持ってきた洋服も、全て汗かきのために使った物がいたる所に落ちている。
タバコの吸い殻。
全て見られて
「もう、疲れたろ」
はい、辞めます。
もういいです。すみませんでした。
そこでいろんな話がありました。
斉藤先生との〝約束〟
「内柴ならもう一度また、減量して日本一になるだろう。お前は絶対になる」
俺もこれまでお前を使い過ぎた。
でも、この先、お前が何度日本一になっても、俺はお前を使えない。
使いたくても使えないんだよ。
真剣に言ってくれていました。
でも、僕は感謝もしつつ「もうあきらめます」と言い。
そこで、斉藤先生が「一つだけ、ウソでいいから約束をしてくれ」としたことがありました。
柔道を始めて以来 ともに戦ってきた父
それは、
「今回は本当に申し訳ない、柔道界のトップに謝罪する。66キロ級に上げて頑張ります」と内柴が言っている――ということ。
好きにしてください。何でも合わせます。
60キロ級にこだわってきた僕が人生で初めて折れた時に、斎藤仁先生がしてくれた〝ウソの約束〟のおかげで、まさかチャンピオンにまでなるとは。
これがあったことで、僕は階級を上げて全ての予選を優勝していったのですが、
斉藤仁先生が大人の話でまとめてくれてたからこその結果でもあります。
そんな長ーい期間、僕が一緒に戦っていた第一の人物は父でした。
(内柴正人=この項つづく)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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