【五輪金メダリスト連載】五輪に好かれた男!日本柔道界初の金メダリスト・審判としても出場~1964年東京五輪柔道軽量級・中谷雄英

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

本柔道界初の五輪金メダルが、五輪・柔道競技の金メダル第1号でもあった。

 

1964年東京五輪・柔道軽量級で、中谷雄英は金メダルを獲得した。

東京大会は、柔道が初めて正式競技になった年。さらに、軽量級・中量級・重量級・無差別級の4つの種目のうち、最初に試合が行われたのが、軽量級だった。そこで金メダルを獲得した中谷は、日本柔道に五輪初の金メダルをもたらしたのみならず、長い歴史を誇る五輪・柔道の第1号金メダリストにも輝いたのだ。

しかし、「無差別級こそ柔道」の考えが浸透していた当時は、それほど評価されなかったという。

 

金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

 

 

柔道がやりたい!兄に憧れ父に頼み込んだ

プレゼントより、柔道がやりたかった。

 

中谷は4兄弟の次男として生まれた。

小学6年生の時、近所に柔道場が開かれ兄が通い始めると、柔道のトリコになった。しかし、父に習わせてほしいと頼んでも、中学生になってからの一点張り。それでも柔道がやりたかった中谷は、父に欲しいものはないかと問われた際も、ものではなく、柔道をやらせてほしいと懇願した。

小学生がプレゼントはいらないと言った。父もこれは一大事だとさすがに気づいたようで、結果、中谷の粘り勝ち。12歳で柔道を始めることになった。 

 

大学4年で東京五輪に 高校に入り直したおかげ

念願叶って歩み始めた中谷の柔道人生を決めたのは、高校時代だったと言っても過言ではない。まず進学した山陽高校は、校風が合わず1年もたずにリタイア。そうして、広陵高校に入り直したことが、中谷のその後を大きく左右する。

 

というのも、64年東京五輪に大学4年生として出場することができたのだ。

順調に山陽高校を卒業していれば、64年時には社会人1年目。練習環境が整っているかも分からず、仕事との両立で練習時間が減っては、台頭する学生に太刀打ちできない。

だが、高校時代に1年間のハンデを負ったことが、結果的に最も練習に打ち込める学生時代、そして学生最強の4年生として五輪に出場することにつながった。 

 

広島の姿三四郎 いざ世界へ

そんなことはつゆ知らず、広陵高校で練習に打ち込んでいた中谷は、「広島の姿三四郎」の異名を誇る強さを身につけていた。

強豪の明治大学に進学後は、無差別級の選手が揃う団体戦のメンバーには選ばれなかったが、軽量級で道を切り開く。2年生から東京五輪の強化合宿で代表争いを繰り広げる中、決め手となったのは東京五輪8ヶ月前のモスクワ国際大会だった。ソ連の強豪・ステパノフを撃破し優勝を果たしたのだ。

選考は開幕の1ヶ月前まで続き、ラジオで発表を聞いた明大の関係者に、おめでとうと言われた時には信じることができなかったという。 

 

日本柔道界初の金メダルへ 強豪撃破

そうして日本柔道選手団の1番手として、中谷は戦いの場に乗り込んだ。

準決勝の相手は、あのステパノフ。相手もリベンジマッチのために戦略を練ってきたはずだが、肝の座った中谷は試合開始2分、出足払いで「技あり」、その後も左の大外刈りで技ありの合わせ技で快勝した。

決勝でもスイス代表のヘンニを圧倒。小外掛けで技あり、さらに足技連発でヘンニにしりもちをつかせた。主審は3分間中断した後技ありを認め、合わせ技で勝利。日本柔道・五輪柔道で最初の金メダルを手にした。

 

 

指導・審判・聖火ランナー 五輪を楽しみ尽くした

日本には「無差別級こそ柔道」の考えが浸透していたが、海外からの評価は高く、五輪後には西ドイツ代表コーチに指名され、ミュンヘン五輪に向けて、重量級のグラーンらメダリストを育て上げた。

審判の資格を取得すると、1996年アトランタ大会では五輪の審判という大役も務めた。

2012年には九段に昇段し、日本でも数少ない「赤帯」を締め、後進の指導に当たっている。

五輪に様々な形で関わり続けた中谷は、今回の東京五輪でも聖火ランナーとして地元・広島の街を走る予定だった。コロナ禍で公道での聖火リレーは中止となったが、点火セレモニーの会場内で聖火をつなぐ役目を果たした。

 

数奇な運命から五輪と共に歩んできた中谷の功績は、これからも受け継がれていく。
(mimiyori編集部) 

 

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