米・原子力潜水艦ばりの潜水力で、世界のルールをも変えてしまった。
古川勝は1956年メルボルン・ストックホルム五輪競泳200メートル平泳ぎを潜水泳法で制し、戦後初の金メダルを日本水泳界にもたらした。
その直後、国際水泳連盟は練習で溺れる可能性があるとして、スタート前後以外の潜水泳法を禁じ、今はもう潜水泳法を見ることはできない。
しかし、600cc超えの肺活量で40メートル以上を潜ったまま泳ぎ、世界の常識を覆した男・古川勝の伝説は今も語り継がれている。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
潜水泳法の本家 面目躍如
1956年メルボルン・ストックホルム五輪競泳200メートル平泳ぎ予選。古川は、40メートル以上潜ったままで泳げる「潜水泳法」を武器に、五輪前から金メダル確実と見られていた。
しかし、本番では伏兵が現れた。デンマークのグライエが潜水泳法を完全マスターし、なんと予選レースでは古川よりも長い距離を潜水したのだ。本家・古川は度肝を抜かれた。
迎えた決勝。
グライエが先行したが、100メートル過ぎに疲れが出たのかスピードダウン。そこを古川は見逃さず、一気に追い抜いた。終盤は、ソ連のユニチェフに一時並ばれたが、ラスト10メートルから得意の潜水でライバルたちを一気に引き離し、1位でフィニッシュ。最後は本家の底力を見せつけることとなった。
日本人女性初の金メダリスト・前畑秀子はご近所さん
1936年、古川勝は和歌山県橋本市に生まれた。ちょうどその年、同じく和歌山県橋本市出身の女性スイマーが金メダリストになった。36年ベルリン五輪で、日本人女性初の五輪金メダルを獲得した前畑秀子だ。
偶然にも、生家が前畑家と近所。中学時代には前畑から「平泳ぎが素晴らしいから、平泳ぎ1本でやっていきなさい」と激励されていた。
肺活量と潜水力は一級品 まさに「人間ノーチラス」
日大進学当初は伸び悩んだが、2年時に転機が訪れた。600cc越えの肺活量を生かすべく、潜水泳法を取り入れたのだ。
40メートル以上潜ったまま泳ぐ驚異的な泳ぎは注目を集め、当時の米原子力潜水艦にちなみ「人間ノーチラス」の異名をとった。
最後の潜水金メダリストに
だが、「人間ノーチラス2世」が生まれることはなかった。56年五輪後、国際水泳連盟はルールを改正、潜水泳法は練習で溺れる可能性があるとされ、スタート前後など以外の潜水を禁止した。古川が世界に与えた衝撃は非常に大きく、世界のルールをも変えてしまった。
81年には、故郷の先輩・前畑に続き、国際水泳殿堂入りを果たした。橋本市では2人を顕彰し、「前畑秀子・古川勝記念水泳大会」が毎年開催され、2019年に12回目を迎えている。
名実ともに先輩に並び、ふるさとのヒーローになった古川は93年、前畑より一足先に天国に旅立った。
(mimiyori編集部)