【五輪金メダリスト連載】 初めて兄弟で表彰台に立った重量挙げのレジェンド

伊勢神宮の日の丸

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

さまざまな競技で本格的な活動が再開される中、柔道では女子代表の国際大会派遣が再開される見通しとなった。52キロ級では20歳の阿部詩が代表に内定。兄の一二三は男子66キロ級でし烈な代表争いを繰り広げている。

五輪の兄弟出場は過去にも例はあるが、同一競技同一種目において日本で唯一兄弟で表彰台に立った選手がいる。1968年メキシコシティー五輪、ウエイトリフティングフェザー級の金メダリスト三宅義信だ。

 

 

 

 

同じフェザー級で金&銅

きょうだいによる五輪そろい踏みの元祖は、柔道・中村三兄弟、レスリング・伊調姉妹でもない。68年メキシコシティー五輪で三宅義信と義行は個人競技で史上初めて、兄弟そろって表彰台という快挙を成し遂げた。

兄・義信は60年ローマ五輪男子バンタム級で銀メダル、64年東京五輪はフェザー級で金メダル。28歳で迎えたメキシコシティー大会もフェザー級に出場。五輪連覇も快挙だったが、6歳年下の弟・義行が同じ階級で銅メダルを獲得。双子のようにうち二つの顔と体格の兄弟は、同じ笑顔で表彰台に上がり「ミヤケ」の名を世界に広げた。

 

 

重量挙げのきっかけは柔道 

 

連覇を果たした義信は、1939年、宮城県で9に兄弟の6番目に生まれた。重量挙げの存在を知ったのは高2の時。中学から柔道をしていて、勝つために力をつけようと、バーベルがあった近隣の高校の重量挙部へトレーニングに通い始めた。重量挙げの面白さを感じ始めた頃、ラジオで56年メルボルン五輪の実況に聞き入った。高3時には国民体育大会で5位入賞。才能が開花するまで時間は擁さなかった。

 

高校卒業後は、重量挙げの名門・法政大学に進学。3年時に出場した60年ローマ五輪では男子バンタム級で銀メダルを獲得。大学卒業後は自衛隊体育学校へ進み、62年の世界選手権を優勝するなど、地元開催の五輪金メダル大本命として期待された。 

 

 

1964年東京五輪 日本勢金メダル1号

24歳で迎えた東京五輪。試合前日に競技会場を訪れ、突貫工事でいまだに作業をしている様子を見て、金メダルへの思いを強くしていた。開会式から2日後の10月12日、男子フェザー級では9階すべての試技を成功させ、自身が持っていた世界記録を10キロ以上も更新して優勝。日本勢大会第1号の金メダルは日本選手団に勢いを与え、アジア初開催の東京五輪で日本は16個の金メダルを獲得した。 

 

68年メキシコシティーで連覇。その後、72年ミュンヘン五輪にも出場したが4位に終わり、4度目の五輪で初めて表彰台を逃した。翌73年に現役引退。自衛隊体育学校の教官として後進の育成指導に尽力した。93年からは同校校長も務めた。 

14年の創部以来、東京国際大学ウエイトリフティング部の監督を務める傍ら、同年5月に現役復帰を宣言。マスターズ大会などに出場している。17年、77歳で出場した全日本マスターズでは、75~79歳・56キロ級でスナッチ43キロ、ジャーク50キロのトータル93キロで銅メダルを獲得。80歳となった今もなお、指導者、さらには現役選手として競技に貢献している。

 

 

弟・義行は娘と親子出場

 「重量挙げのエリート一家」として知られ、弟・義行の娘で義信の姪である三宅宏実は女子48キロ級で、12年ロンドン五輪は銀、16年リオデジャネイロ五輪は銅と2大会連続でメダルを獲得している。 

1年延期となった東京大会は出場すれば5度目の五輪。集大成の舞台としても見据えている。叔父である義信が金メダルを獲得した東京の舞台で、再び「ミヤケ」の名を世界にとどろかせる。

(mimiyori編集部)