五輪初の優勝メダルは「銀」だった
第1回アテネ大会で優勝者に渡されたメダルは「金メダル」ではなかった。現在、メダルといえば「金銀銅」が世界の常識だが、当時は違ったようだ。
アテネ大会の優勝メダルは、フランスの彫刻家ジュール・シャプランのデザインで鋳造。片面には全能の神ゼウスの顔があしらわれ、その右手に持つ球の上には勝利の女神ニケが月桂樹の枝を持って立っているというデザインだった。もう一方の片面にはアクロポリスの神殿全景が彫られている。
直径は48.9ミリ、厚さ3.6ミリ、重さ68グラムの円形だが、なんと銀製。当時は、優勝者にこの銀メダルとオリーブの小枝が授与された。2位に贈られたのは銅メダルと月桂樹の小枝で編んだ冠。3位にメダル授与はなかった。
メダルの色が順位別に金、銀、銅となったのは、1904年のセントルイス大会から。一説には、金属の価値を考慮して、1位に金、2位に銀、3位に銅が与えられるようになったとされる。また、ギリシャ神話における人類の歴史区分である黄金時代、白銀時代、青銅時代、鉄の時代に由来するという言い伝えもある。
ちなみに、1900年の第2回パリ大会では、五輪史上唯一の四角いメダルが授与されている。
アテネ五輪のトラック種目は右回りだった
陸上競技は第1回アテネ大会から行われている。ところが、現在とはまったく違ったことがある。200メートルや400メートルなどのトラック種目は反時計周り(左回り)で行われているが、当時は逆方向の時計回り(右回り)が採用されていた。
1908年の第4回ロンドン大会から一部の種目で現在と同じ反時計周りが採用されているが、それまでは明確な規定がなかったとされる。1912年に国際陸上競技連盟(IAAF)が設立され、翌13年に競技の規則として「トラック種目を左回りとする」と初めて定められた。同じ場所をグルグル回る周回種目は、右回りよりも左回りの方が良い記録を生みやすいことが理由とされた。
反時計周りの方が好記録となる理論は明確にない。「人の体は左に心臓があり、体の重心が左半身にかかりやすいため反時計周りの方が走りやすい」や、「北半球では自転の影響で左回転の力が働くため、左回りで走った方が良い記録が出る」など諸説あるが、いずれも仮説のままとなっている。
マラソンの起源は42.195キロではなかった
マラソンといえば、42.195キロ。2000年シドニー大会で、金メダルに輝いた高橋尚子がゴール直後に発した「とっても楽しい42.195キロでした!」は日本五輪史上の名言の1つとなっている。
陸上競技のマラソンは、「マラトンの戦い」の伝説が起源とされている。マラトンとは、ギリシャ・アテネの北東約40キロの海岸にある都市。紀元前490年に、アテネ軍が奇襲によって上陸したペルシア軍に大勝した古戦場として知られている。
アテネ軍は数の上では劣勢だったが、機動力を生かした戦いを仕掛け、奇跡的な勝利を収めた。1人の兵士が勝利の知らせを携え、アテネまでの道を走りに走り、アテネに着くと「我ら勝てり」と言い残して息絶えたと伝えられている。
ところが、マラトンからアテネまでの距離は42.195キロではない。第1回アテネ大会のマラソンはアテネ―マラトン間を走ったが、距離は約40キロだった。その後も、走る距離は大会ごとに違っていた。
五輪で初めて42.195キロのコースを走ったのは、1908年ロンドン大会。この時は英国のアレクサンドラ王妃が「スタートは宮殿の庭、ゴールは競技場のボックス席の前で」と女王の一声で、距離が少し延びることになったと伝えられている。
(mimiyori編集部)