パラリンピックにも、“日本のトビウオ”と評される選手がいる。
全盲クラスのパラ水泳選手、「世界のキムラ」こと木村敬一だ。
2008年北京パラリンピックから3大会連続で日本代表として参加し、合計6個のメダルを獲得した日本のエースだ。
16年リオでは50メートル自由形、100メートルバタフライで銀、100メートルは平泳ぎ、自由形で銅メダルを獲得。東京パラリンピックで悲願の金メダル獲得が期待されている。
選手の素顔を知れば、競技にも興味がわくパラアスリート連載、木村敬一の中編は「ブラインドの水泳選手が泳ぐということ」。一番習得が難しいこととは?
泳ぎ方を見たことがない
10歳の時、母親の勧めで水泳を始めた。この始まりはどこの家庭でもよく見られるパターンだ。
しかし、2歳で全盲となり、「泳ぎ方」を見たことのない木村にとっては健常者とは異なる練習で現在の泳法を身につけた。
視覚障がいを持つ人がスポーツを始める場合、フォームを身につけるには、体の動かし方を触覚や具体的場言葉で理解する必要がある。
手の動き、肩の回し方、足の蹴り……1つ1つを習得するべく、人のフォームにじかに触れたり、触ってもらったりを繰り返す。水泳なら、水の重さを“感じる”ことも大切だ。
そして、訪れる最大の難関は「真っ直ぐに泳ぐこと」。
全盲の選手はコースロープの感触が頼り。しかし、例えば平泳ぎなら1ストロークで3メートル前後も進むため、水をかいた瞬間にコースロープをくぐり、隣のレーンに侵入してしまうこともしばしば。
木村がトップスイマーとなってからも、リオの前哨戦である16年夏のジャパンパラでは、2つ隣のレーンまで横断してしまい失格となった。それほど完全な習得は難しいものなのだ。
”相棒”寺西氏との出会い
地道に練習を重ねて中学生になると、生まれ故郷の滋賀県から上京。筑波大附属視覚特別支援学校に入学し、寮生活を始めた。
そこで入部した水泳部で運命の出会いを果たす。
当時は教諭を務め、現在は定年退職後もコンビを組む寺西真人氏だ。寺西氏は水泳で河合純一、酒井喜奈、秋山里奈、のちの木村も合わせて4人のパラリンピックメダリストを育て上げた。パラ絵水泳界では名伯楽として知られる。
コンビというのも、寺西氏は全盲のS11クラスならではの「タッパー」という役割を務める。ターン・ゴール時に「そろそろ壁だよ」と2メートル程度の長い棒(タッピング棒)で、頭部を軽く叩いて知らせてくれるのだ。
壁を目視できない木村にとって、目の代わりとなってくれる寺西氏の存在は欠かせない。
トップスイマーとなれば、自身の50メートルのストローク数が身体にしみ込んでいる。しかし、レースでは0.01秒を争い、最後のひと伸びなのか、ひとかきなのかを選択するだけで順位が大きく変わる。
タッパーとの「あ・うんの呼吸」がモノを言う。
コンビ力で世界選手権制覇
実際、「あ・うん」で金メダルを獲得したことがある。2015年世界選手権だ。
100メートルバタフライのゴール直前、ライバル選手ペアは最後のひとかきが足りずにフィニッシュまで一瞬の間が生まれたが、木村ペアは絶妙のタイミングでタッピングを行い、勝利した。
木村は、恩師であり、“相棒”でもある寺西氏についてこう語る。
「寺西先生は長いこと一緒にいるので、とても安心感があります。タッパーで勝った試合もありますし、この人でダメなら、これ以上の人はいないという絶対的な存在です。そのほかの場面では師匠、親代わり……行き詰まった時にパッと相談できるのは寺西先生です」
ストイックな筋肉をつけて12年ロンドン銀
高等部在籍中の08年には、日本選手団最年少で北京パラリンピックに初出場し、100メートル自由形、平泳ぎでともに5位の成績を残した。
その後日大に進学し、12年ロンドンパラリンピックでは100メートル平泳ぎで銀、同バタフライで銅を獲得した。
しかし、振り返れば「ロンドンまでの自分は“競泳選手”とは言えなかった」という。
本格的にパラリンピックで金メダルを目指すために、自分に何が足りないのか。
その答えは、母校・日大の野口智博教授が教えてくれた。
スタートからゴールまで最短距離を進むのに必要なパワーをつけるため、1日5食、4500キロカロリーを摂取した上で、ウエートトレーニングに励む日々が始まった。
コースロープに手が当たるとコース内での位置は分かるが、そのぶんタイムロスが生まれる。ウエートトレで体をつくり上げ、そのロスをものともしないパワーを身につけた。
「野口先生は、選手として一から作り直してくれた存在です。自分を“競泳選手”にしてくれた人だと思っています」
2人の恩師が支えてくれたかいあって、「リオで金メダル」は現実味を帯びていた。
(つづく=mimiyori編集部)
※これまで取材した内容を再編集して掲載。