パラリンピックにも、“日本のトビウオ”と評される選手がいる。
全盲クラスのパラ水泳選手、「世界のキムラ」こと木村敬一だ。
2008年北京パラリンピックから3大会連続で日本代表として参加し、合計6個のメダルを獲得した日本のエースだ。
16年リオでは50メートル自由形、100メートルバタフライで銀、100メートルは平泳ぎ、自由形で銅メダルを獲得。東京パラリンピックで悲願の金メダル獲得が期待されている。
選手の素顔を知れば、競技にも興味がわくパラアスリート連載、木村敬一の後編は「リオで逃した金メダル その後」について。
世界ランキング1位種目で銀に泣く
リオパラリンピックのまず1レース目・50メートル自由形では、同種目初の銀メダルを獲得した。さらに100メートル平泳ぎでも銅メダルを獲得。上々の滑り出しだった。
3レース目は当時世界ランキング1位を誇り、金メダルが期待されていた100メートルバタフライだった。
第4レーンの木村は、50メートルのターンはトップで折り返したが、レース後半に左隣のレーンを泳ぐイスラエル・オリバー(スペイン)に振り上げた手が接触。最後の最後に差されてしまった。結果は惜しくも銀メダル。水に浮いたまま天を仰いだ。
「金メダル、獲れなかったですね。獲れなかった瞬間は結構、頭が真っ白になっちゃって。悔しくもなければ悲しくもないし、もちろん嬉しくもない。なんか他人事みたいな感じでしたね」
その後は体調不良と相まって、厳しい戦いが続いた。100メートル自由形は気力で4個目のメダルとなる銅メダルを獲得。最後の5レース目、200メートル個人メドレーでは日本記録を出したが、メダルには届かず4位。
金メダルは東京大会におあずけとなった。
単独米国修行に出発
100メートルバタフライで銀メダルに終わった悔しさは、そう簡単には消えない。
リオパラリンピックの閉会式中は、風邪なのかプレッシャーなのか、それとも疲労からなのか、自室で寝込んでいた。
時間が経つにつれ、受け入れられるようになって自分の中で整理すると、「あの時はあれが限界かな」「やるだけのことはやった」と思えるようになったという。
木村の目はもう東京での金メダルに向いている。
リオでは完全だと思っていたけれど、足りない部分があったという。
心だ。
「試合が近づくにつれて不安になりましたし、楽しみだなとあんまり思えなかった」
心を鍛え、技術の更なる向上を目指して、木村が向かった先は米国だった。
ロンドン・リオで複数の金メダルを獲得したライバルであり、友人のブラッドリー・スナイダーに、米東海岸の町・ボルチモアでの修行を紹介された。
さらに数多くのパラリンピック金メダリストを育て上げた、ロヨラ大学のヘッドコーチ、ブライアン・レフリー氏に師事し、大学での練習と語学学校での勉強の日々で、着実に力をつけていた。
コロナ禍で無念の帰国
心身ともに鍛えている2020年3月、米国で新型コロナウイルスの陽性者が確認された。
最初はこの苦境をこらえ、米国に残留して練習に励むと強く誓っていた。
しかし同月11日には大学が休校を決めた。プールの利用は許可されたが、寮の食堂も営業を停止することが決まり、語学学校もオンライン授業に突入した。
「もうアメリカにいる必要ないじゃないか」
「オリパラもあるのか分からない。完全に暗闇に向かって泳いでいる感じだ」
(本人noteより)
食堂最後の夕食のメニューは、“在庫処分セール”のごとく冷蔵庫の中身をすべて刻んだかのようなタコス。米国修行中に大好物となったメキシコ料理で最後の晩さんを終えた。
そして同月18日、帰国の途についた。
コロナ禍の中で進み続ける
コロナ禍が起こるとは知らない頃。
「目標は金メダル、とはまだ言わないですよ。覚悟が必要なんで。少なくとも今以上の覚悟を持っていかないといけないので。」と話していた。
覚悟を決める心をつくっている時期に、まさかの事態に襲われ、現在も厳しい環境に身を置いている。
しかし、21年の夏に向けて着実に一歩ずつ成長を遂げているに違いない。
東京の表彰台には、にこやかな木村の笑顔があるはずだ。
(おわり=mimiyori編集部)
※これまで取材した内容を再編集して掲載。