プロレス界の最古参記者・門馬忠雄氏の新著書「雲上の巨人 ジャイアント馬場」が2021年10月20日、文藝春秋社より発売された。
故ジャイアント馬場氏は2メートル9の日本人選手最長身選手として絶大な人気を誇り、昭和の国民的スターとして名を馳せた。
門馬氏は東京スポーツ入社3年目の1964年にプロレス担当となって以来、1999年に61歳で他界したジャイアント馬場氏と35年間にわたって親交を深めてきた。
83歳になった門馬氏が「絶筆のつもりで」(同氏)描く素顔のジャイアント馬場とは、そして馬場元子夫人とは?
日本マットに参戦した外国人選手たちについても振り返る、色鮮やかな「昭和プロレス絵巻」の一冊だ。
ジャイアント馬場とは
プロレスファンでなくとも、21世紀生まれであっても、その名を聞いたことはあるだろう。
ジャイアント馬場。
日本を代表する名プロレスラーであり、テレビのバラエティ番組などでも大活躍するなど国民的大スターだった。
1938年生まれの新潟県出身で、もともとは高校時代にプロ野球の読売巨人軍に入団。投手として1軍マウンドは1957年の3試合登板0勝1敗、防御率1.29にとどまり、負傷のためプロレスに転向した。
1960年に日本プロレスでデビューした後は、2メートル9の長身から繰り出す「16文キック」を武器に日本のエースに君臨。のちに1972年、全日本プロレスを旗揚げして、団体の長としてもプロレス界の現在をつくり上げた。
そのデビューから4年後、福島県相馬市出身の若き記者は馬場と出会うことになる。東京スポーツ社でいやいやプロレス担当になったばかりの門馬氏だ。
現役最古参記者・門馬忠雄氏とは
当時の東京スポーツはまだ、宇宙人やツチノコは発見していない。プロ野球、プロレスを中心にスポーツを中心に報じる「スポーツ夕刊紙」だった。
ボクシング担当からプロレス担当に異動を命じられた日、門馬氏は「なぜ俺がプロレスなんだ!」とやけ酒を飲んだという。
しかし、まもなく馬場と初対面した時に交わした会話によって、「プロレス界にもこういう人がいるんだ。やっていけるかもしれない」と確信。以来、巡業取材などで年間200日の出張をこなしながら、86年に退社した後もフリーの記者としてプロレス界を見つめ続けてきた。
プロレス黎明期を知るベテラン記者は年々、「雲上の人」となっている。元新聞記者で、79歳まで現場取材を続けた大御所記者・菊池孝氏は2012年に他界。同年には、プロレス専門誌「週刊ゴング」の元編集長で、1960年代から取材・編集を続けてきた竹内宏介氏も他界した。
かつて週刊ゴングの名物コーナーだった、大御所記者たちの対談企画「三者三様」のメンバーは前述2人が他界し、今回の著者・門馬氏が1人、現役記者としてスポーツ・グラフィック誌「Number」などでも健筆をふるっている。
ユーモアにあふれた執念の筆
馬場から「モンちゃん」と呼ばれ、公私にわたる交流を持ちながらも、門馬氏は記者としての立場を崩さず、一定の距離を置いて馬場、そしてプロレスラーたちを生涯かけて〝人間観察〟してきた。
本書では、酒席の話あり、オナラの話あり。もちろんヒリヒリとした海千山千のエピソードあり。目線はユーモアかつシビア、巡業の様子はまるで目の前に映像が浮かび上がるかのように生き生きと描かれる。
また、馬場が民謡に造詣が深かったことを明かしつつ、対極の例として豊登の歌いっぷりをして「下品の極みであった」と記したり、日本人を見下げるキャラクターの外国人選手を取材した際は「本当にムカつく野郎だった」と吐露したりと、門馬氏の率直ぶりが実にすがすがしい。
門馬氏は93年、55歳の時に脳梗塞で倒れ、右半身にまひが残った。
以来、取材には左手で杖をついて会場入り。同行した美佐枝夫人にペンを持たせ、口述筆記で原稿を作り上げてきた。利き手ではない左手でペンを握ったこともある。
とてもいい加減で、愛すべき昭和の時代。
そのさまをユーモアたっぷりに描く、執念の筆。
「昭和プロレス絵巻」の喜怒哀楽を味わいつつ、門馬氏を知る後輩として先輩記者の凄みにも思いをはせた。
(丸井 乙生)
◆「雲上の巨人 ジャイアント馬場」
【著者略歴】
門馬忠雄(もんま・ただお)
1938年(昭和13年)、福島県相馬市生まれ。
62年、東京スポーツ新聞社に入社。
入社3年めからプロレス担当となり、
年間200日は出張取材に赴いていたという。
86年に退社し、プロレス評論家となる。
以来、「Sports Graphic Number」などで活躍。
93年に脳梗塞で倒れるが、リハビリ後、執筆活動を続ける。
同じ歳のジャイアント馬場との交流は、35年に及んだ。