【裏声人語】取材後記~勇退する仙台育英ラグビー部・丹野監督と再会して

 

丹野博太 丸井乙生

仙台育英ラグビー部の丹野博太監督。監督としては2020年度の花園を最後に勇退する

(撮影:丸井 乙生)

取材やリサーチをする中で、スタッフが日々体験した秘話、裏話がある。

それらをひそやかに紡ぐ、エッセイふう不定期連載「裏声人語」。

第1回は、全国高校ラグビー大会で監督を勇退する仙台育英・丹野博太(ひろたか=55)監督について。

筆者との出会いは2001年。19年の時を経て、2020年の年末に勇退記事を書くことに。

人の縁とは、人生の旅路とは。

 

 

 

 

心の支えはサザンの「旅姿六人衆」

スポーツ紙の記者時代、いつも心の中に流れていた曲がある。サザンオールスターズの名曲「旅姿六人衆」だ。

 

――毎日違う顔に出逢う 街から街へと

 

新聞記者は出張が多い。日々新幹線、飛行機、時にはローカル線にも乗る。ハッと気がつけば、目的地直前。移動時間はほぼ眠っていた。

 

当然、体はキツい。新幹線の車中、到着駅が表示された電光掲示板を見上げながら、寝起きの自分を奮い立たせようと思うたび、「旅姿六人衆」の歌詞が浮かんできた。

 

――華やかな者の影で今 動く男達

 

トップアスリート、そして一瞬に人生をかける若者たちを取材できる仕事は限られている。その仕事を得た喜びと、目の前のしんどさをいつも天秤にかけ、日々を乗り切っていた。

 

 

懐かしい顔に出会えることがある

時を経て、テレビ番組のリサーチや翻訳を主たる業務に変え、たまには書籍編集もしながら、このWebメディア「mimiyori」の運営も始めた。

 

取材に出掛ける回数は減ったが、懐かしい顔に出会えることがある。

 

仙台支局時代に取材に通った仙台育英のラグビー部・丹野博太監督は、2020年度の全国高校ラグビー大会を最後に勇退するのだという。

 

取材していた時期は2001~2004年。丹野監督は当時30代だった。秋田県出身の元フランカーは当方のつたない取材に嫌な顔もせず、毎回真剣に応じてくれ、少ない言葉に多くの思いをこめる。そんな先生だった。

 

 

どうしていいか分からなかった

 

 

 

2011年東日本大震災、東京本社に転勤していた筆者は3月11日の午後3時過ぎ、都内の電機店に設置されていたテレビで仙台の惨状を知った。

丹野先生は。仙台育英は。

電話で連絡が取れたのはしばらく日が経って、丹野監督が買い物の列に1時間以上は並んでいるという時だった。

 

「ホント、何にもねえよ」

 

どうしていいか分からない。とりあえず、元仙台支局に勤務したことがある先輩記者に相談してカンパを募り、震災直後は路面に数十センチの段差ができていたという東北自動車道が再開通してから飛んで行った。

 

行ったはいいが、言葉が出なかった。街の電柱は傾き、海側に近づくにつれて根こそぎ奪われた爪痕が見て取れる。

この経験をした人に、自分は何が言えるだろう。

自分の小者さ加減におののき、以来足は遠ざかった。

 

1本のLINEで再会 

2020年、丹野監督は55歳を迎えた。監督として最後と決めた花園を前に、「今年で最後にするよ」とLINEで連絡をくれた。とりあえずカメラを手に、全身消毒をして車に乗り込み、遠巻きに取材することができた。

久しぶりに会う先生はちょっとやせていた。しかし、若者たちと接しているからか、おしゃれな服装のチョイスは変わらない。

ラグビーのゴールポスト。ラグビー部にとっては青春時代の象徴(撮影:丸井 乙生)

ラグビーは1人1人に役割があり、個々人の体型、性格、特長によって輝くポジションがある。社会の縮図だ。

 

――つらい思いさえ ひとりきりじゃ出来ぬことさ ここにいるのも

 

最後の花園に向かう直前の合宿。カメラを構えると、目の前を通過した選手たちがニコッと笑い、Vサインをしながら通っていった。

 

時を経て変わりゆくものもあれば、再び交わる縁もある。

彼らもきっと、これからの長い旅路でいろんな人に出会うだろう。

 

一瞬でも同じ時間を共有した者として、丸30年に渡って選手たちを送り出してきた丹野監督、その教え子たちにエールを送りたい。

(丸井 乙生)

 

 

 

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