【ビジネス】経営哲学=紅虎餃子房(際コーポレーション) 中島武代表取締役社長 外食産業の鬼才 「押忍」で難局を乗り越えろ①

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mimiyori編集部の近所にもある紅虎餃子房。いつもお世話になっています。(撮影:丸井 乙生) 

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。

 

外食産業が窮地に立たされている。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、日本各地では外出自粛要請により、各家庭が外食を控えている。『紅虎餃子房』や『タイガー餃子会館』などで知られる際コーポレーションは、テイクアウト商品を充実させることで難局を乗り越えようとしている。創業者の中島武は、40歳を過ぎてから小さな中華料理店を外食のトップ企業に成長させた“元応援団団長”。自身にエールを送りながら、これまでも数々の困難を打破してきた。

 

 

大手企業をあっさりリタイア

就職活動では引く手あまただった。学生時代の肩書は「応援団団長」。拓殖大学付属高校に入学し、高校、大学を通じて応援団一色の生活を送ったことが奏功した。

ところが、大手電力会社や、財閥系不動産企業からの誘いまであったのに、中島本人はどうも気が進まない。

結局、先輩の口利きもあって人がうらやむ大手航空会社に就職したのだが、社内文書が英語で書かれていたことが引き金となり、わずか2カ月でリタイアしてしまった。

「だって、英語なんてわかんないでしょ。大学では応援団ばかりやっていたんだから」 「レールが敷かれた人生なんて、つまらん」

大学まで学費を出してくれた親のための就職でもあったが、自分が思い描いていたスケール感と、実際の会社のスケール感があまりにもかけ離れていたことで、「社会って意外と大したことない」と考えてしまった。

後年になって、考えが甘かったことに気づくのだが、当時は「航空会社に勤めていて、トップランナーに躍り出ることはない。違う世界で闘っていかねば」と決意した。

バブルに踊り、泡と消える

退職後、応援団時代の先輩と一緒に警備会社を設立したものの、長続きせずに転職。不動産、金融関連企業に就職し、ここでは約10年間勤めて取締役にまでなった。

このキャリアを生かし、35歳の時に同じ不動産・金融系の会社を起業。時代はバブルに向かって一直線の頃で、投資するごとに元手は増えた。

正確に計算したわけではないが、300億円程度を動かすようになっていたという。


そんな時代もつかの間、バブル退治のための総量規制が始まると、中島の周りにも倒産する企業が続出した。

「うちの会社は体力があった。だから、なんとか倒産は免れた。民事再生もしていません」とはいえ、中島には数10億円もの個人債務が残った。八方手を尽くして返済した。そして「不動産も、金融も、もういいや」と幕を引いた。

42歳で中華料理屋のオヤジ

バブル時代には、数えきれないほど海外旅行に出かけた。その影響から、42歳の時に飲食業に目を向け、「日本にはまだない中国料理を紹介するような店を作ろう」と思い立つ。中島はゴルフをしないし、金遣いも荒くはない。海外では現地のおいしい料理を食べ歩くことが一番の楽しみだった。ささやかな趣味が、新たな大事業の素になった。

高級料理を提供するのではなく、町場の庶民的な料理店にすることを決意。単身香港へ出向き、独学で料理を猛勉強した。

1990年12月に「際コーポレーション」を設立。翌91年6月には、本場で学んだ技術を生かすべく、昔から好きだった街の東京・福生で中国料理の『韮菜万頭(にらまんじゅう)』を開店した。当初は、頭を下げるような営業をしなくても、店さえ開けば客は来るだろうと高をくくっていた。月商は50万円に満たず、メニューの「ニラまんじゅう」を「餃子」に改めるなどして少しずつ売上げを伸ばすのがやっとだった。

「なんで売れないのか。どうして客が来ないのか。それを何度も何度もしつこいぐらいに考えました。それを繰り返しているうちに、なんとか目途が立つようになってきた」

実は、韮菜万頭の出店前に、中島はイタリア料理店を開店させている。当時はマガジンハウスの雑誌「Hanako」が絶頂の頃で、リリースの仕方がわからなかった中島は「福生でおもしろい店をやっているので取材に来てください」と手紙を書いたが、まったく反応がなかった。1年半後になって、取材が実現したという。
(②につづく=mimiyori編集部)

 

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