【経営哲学】ココイチ創業者の変人伝説~変人こそが成功のカギ!①壮絶な生い立ちが原体験

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(iStock=写真はイメージ)

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの人生哲学についてまとめたコラム。

 

日本一の変人経営者ーー「ココイチ」の愛称で知られる「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業した宗次德二は、自身をこう端的に表現する。

 

孤児院で育ち、養子になってからも極貧生活を送っていた少年が、今や世界1400店を超える企業のトップ経営者に躍り出るまでに、常に「変人であること」が逆境の扉をこじ開けるカギになった。

前編は壮絶な生い立ちについて。

 

※再掲記事

 

 

 

ギャンブル好き養父の破産で夜逃げ

石川県で生まれたが、実の両親や家族の記憶はない。

誕生後すぐ、兵庫県尼崎市の児童養護施設に預けられた。3歳の時に宗次福松、清子夫妻の養子に迎えられるものの、幸せは長く続かない。

宗次夫妻は雑貨商や貸し家業を営む裕福な家庭だったが、物心がついた頃には、父が競輪にのめり込んで破産した。 

 

母の家出と極貧生活

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(photoAC=写真はイメージ)

夜逃げ同然で岡山県玉野市に家族で移住した。

しかも、小学校入学前には母・清子が家出した。父と2人だけの極貧生活は壮絶を極め、電気はなく、水道を止められることが多かった。

学校から戻ると、蝋燭の灯りを頼りに食事を用意し、洗濯などをしながら父の帰りを待った。

その父に競輪場へ連れていかれ、地面に落ちている外れ車券の中から当たりを探すよう命じられたこともある。当然ではあるが、当たり券を拾ったことは一度もなく、シケモク拾いもしたという。

米が買えず、小麦粉を水で溶いたものを焼いて食べた。道端に自生している野草や果物も食べた。

隣の家の母親が3人の子どもに卵を分け与える姿を目撃した時は、心の底から湧き上がる「うらやましい」という思いに震えた。 

 

母との再会と父の死

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(photoAC=写真はイメージ)

母・清子の家出から2年後、その母が名古屋で独り暮らしをしていることが分かり、父とともに転がり込んだ。

 

元のさやへ収まったと安堵したのもつかの間、母は再び家を飛び出した。

両親が気になる宗次は、父と母の間を行き来しながら、母の屋台仕事を手伝うようになる。中学の卒業直前、父が胃がんで入院すると同時に、母との同居を始めた。

 

少年時代、宗次は「どうしたら父に喜んでもらえるか」ということを常に考えながら生きてきた。

その原体験は、「周りの人に喜んでもらうことが単純にうれしい」という、ココイチの「お客様本位」の考え方につながっているという。

 

宗次は高校に入るまで、出生の事実を知らなかった。

入学時に初めて戸籍謄本を見て、両親が養父母だったことを知った。幼少時から両親に「基陽(もとはる)」と呼ばれていたが、戸籍上の本名は「德二」だった。

 

高1の秋、入院していた父が他界する。

 

その父は入院中のベッドでも競輪選手名鑑を持ち込み、宗次に読ませていた。「好きなことを好きなだけやって、養母、私の前から消えていった」父だった。 

 

心の癒しはクラシック音楽

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(photoAC=写真はイメージ)

父の死後は、母が月給2万円、家賃1800円の賄いの仕事を始めたことで生活が安定する。15歳になって初めて電気のある生活を体験。母が同僚から5000円で譲り受けた白黒テレビも自宅に登場した。

 

宗次もアルバイトに精を出して稼ぐようになり、知人から中古の「ナショナルのポータブルレコーダー」を購入する。

 

1000円×5回払いで買ったレコーダーで初めて録音したのがNHK交響楽団のクラシック。メンデルスゾーン作曲の「ヴァイオリン協奏ホ短調 作品64」だった。

 

ココイチ創業者としての現役時代は大好きなクラシック音楽を封印していた宗次だが、ある時、飛行機の中で聴いたテノール歌手・パバロッティの歌声で情熱が再燃する。

 

少年時代の憧れと、機内での偶然が、後年に実現させる「宗次ホール」の着想となった。

 

(②につづく=mimiyori編集部)

 

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