【経営哲学】ヨシダソース 吉田潤喜会長兼CEO 無一文から億万長者に! アメリカンドリームの体現者②

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(写真:photoAC/まやー)※写真はイメージ

番組取材で直接インタビューした経営者の方々についてまとめたコラム。今回はテリヤキソースの「ヨシダソース」を生み出した吉田潤喜会長兼CEOの第2弾です。

世界中で外出、外食が控えられている今、自宅で活用できるソースや調味料に注目が集まっている。ヨシダソースは「アメリカ生まれの日本の味」として米国をはじめ、日本、欧州、中南米、アジアで愛用されている万能調味料。京都市生まれの創業者、吉田会長兼CEOは明るく愛嬌たっぷりのキャラクターを武器にソースを売り上げ、現在はソース業界を超え、米国のビジネス界で活躍している。その生い立ちと起業の過程を知れば、コロナ禍による経済不安を少なからず抑制できるかもしれない。

 

 

 

根性焼きでプロポーズ

カレッジ(大学)に入学した吉田は、住み込みでの「ハウスボーイ(芝刈り、皿洗いなど)」の仕事を見つけ、苦しいながらも食べることには困らない生活を送るようになった。この時期に、後に妻となるリンダ・マクファレンと出会って一目ぼれ。気持ちを抑えることができなかった吉田は、わずか2週間でプロポーズした。その方法が、自分の手に火のついたタバコを押し当てる、いわゆる根性焼きをして、「Yesと言うまで離さんぞ」と半ば脅迫めいたもの。この熱意に負けて、リンダは結婚を承諾した。

リンダの父親、ブーマー・マクファレンに対しては、初対面にも関わらず「ダッド(お父さん)」と呼んだ。娘を持つ父親であれば、日米問わず誰だって図々しいと感じるに違いない。しかも、吉田が日本人であることに当初のブーマーは抵抗を覚えていたとされるが、ここでも持ち前の押しの強さを発揮して、結婚することに成功した。

250ドルの恩返し

1974年11月、長女のクリスティーナ(ミドルネーム:アイコ)が誕生した。出産からわずか数日後にクリスティーナは「黄疸」と診断され、極めて危険な状態にあった。ところが、次第に容態は安定し、幸いにも命は助かった。誕生の喜び、命が救われたことへの感動を味わうことができた吉田だが、相変わらず家計は苦しく、保険に加入していなかった。出産と長女の医療費への不安を募らせていたが、病院からの請求額は予想をはるかに下回る250ドル。病院側の配慮を察した吉田は「絶対に成功して、お返しする!」という誓いを立てたという。

 

 

 

SWATの空手教科書

当時、空手を教えることで生計を立てていたが、それだけでは足りず、ブーマーが勤めていたユナイテッド航空のキッチンでアルバイトもしていた。そんな折、オレゴンにある空手道場が閉鎖の危機にあると知り、思いがけず吉田が引き継ぐことになる。道場での教え子には、その後、同じオレゴンに本社を構えるナイキ社で出世した者や、企業のトップに成長した者もいた。ここでの空手指導が軌道に乗り、吉田はワシントン州とオレゴン州における日本空手道連盟の主席師範に任命された。

吉田の存在は米国北西部で広く知られようになり、警察官のために独自の逮捕術をもとに訓練プログラムを考案、指導してほしいとの依頼を受けるようになった。吉田が実際に考案した逮捕術訓練プログラムは、後にオレゴン、ワシントン両州において、刑務所の看守資格の取得や現役警察官の訓練プログラム、SWAT(特別機動隊)チームの指導教官コースすべてに必修科目として採用された。

道場地下にソース工場

80年、カーター政権末期には全米を不況が襲い、周辺工場は続々と閉鎖、吉田の空手道場の生徒も3分の1に落ち込んでしまう。長女、次女に続く三女が生まれようとしていた幸せな時期に、吉田は再び苦しい生活を強いられた。

クリスマスには道場の生徒たちからたくさんのプレゼントを送られるのだが、吉田にはお返しをする余裕すらない。そこで思いついたのが、日本の母親が営む焼き肉店の、しょうゆ、みりん、砂糖を8時間じっくり煮込んだソース。このソースを自宅で再現して瓶詰めし、リンダにリボンをかけてもらって生徒たちに贈ったところ大反響となった。

ソースは生徒やその家族に「おいしい!」と好評で、リピーターができた。「お金を払ってもいいからほしい」という生徒が出始めた頃には「商売になる」と確信し、道場の地下で1本ずつ丁寧に「ヨシダソース」を生産した。82年、ソース1つで「ヨシダフーズ・プロダクツ」が誕生した。
(③につづく=mimiyori編集部)

 

 

 

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