新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響で、東京五輪とともにパラリンピックも1年延期となった。
1960年に第1回パラリンピックがスタートして以来の非常事態だが、こんな時こそ偉大なる先人たちの活躍を知り、未来に目を向けるべきではないだろうか。
64年東京大会に出場した日本のレジェンドたちを紹介する。第2回は車いすバスケなどで出場した須崎勝巳氏。
「パラリンピックの父」との出会い
初めは寝たきり状態だった。
大分県別府市出身の須崎氏は、20歳の時にバイク事故で脊髄を損傷。
下半身まひが残り、車いすに乗るどころか、ほとんど動こうともしない引きこもり生活となった。
生きる気力さえ失いかけていた時期に、必死に調べてくれた身内の紹介で大分・国立別府病院の整形外科科長だった中村裕医師と出会う。
この出会いが、須崎氏の人生を変えた。
中村医師は「日本のパラリンピックの父」として知られている。
1960年に英国のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターに留学し、スポーツを医療の中に取り入れて、残存機能の回復と強化を訓練する治療に強い衝撃を受けた。
多くの脊髄損傷患者が、この治療により短期間で社会復帰していたため、同医師は同じ手法を日本で実践する決意をして帰国する。
さらに、日本でのパラリンピック開催を自身の使命とし実現に向けて尽力した。
ぶっつけ本番の6種目出場
その中村医師に誘われて、須崎氏は22歳の時に東京パラリンピックに参加した。
車いすに本格的に乗り始めてからわずか1年という、ほぼぶっつけ本番の状態だった。
車いすバスケ、水泳、陸上競技の車いすスラローム、100メートル走、やり投げ、さらに卓球の全6種目に出場。
卓球はルールさえ知らないまま挑み、車いすバスケは自軍のゴールにシュートを放つなどして全敗した。
メダルよりも価値ある「意識の変化」
メダルとは無縁だったが、メダル以上に価値ある「意識の変化」を獲得したという。
事故当初、未来がまったく見えず、生きることさえつらいと感じていた須崎氏だが、パラリンピックで目の当たりにした外国人選手の活躍や、仕事もして結婚もしているという話に衝撃を受けた。
大会後、「しっかり働こう」と胸に決めて大分に帰郷。
義肢装具師として働き始め、結婚もした。
70歳を過ぎてもボッチャや車いすでのランニングなど、スポーツを欠かさない健康的な生活を送ってきた。
障がいがあっても、いつまでも健康でいることこそが1984年に亡くなった中村医師の願いでもあると信じている。
また、パラリンピックを目指す後輩たちに対しては、勝つことだけにこだわらず、自分の心の中の価値観を磨いてほしい、と考える。
大会を機に社会復帰した須崎氏のような若武者を生むためにも、2度目の東京パラリンピック開催を願わずにはいられない。
(mimiyori編集部=③につづく)