2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は寝技の格闘技イベント「QUINTET(クインテット)」、7月13日後楽園ホール大会出場に向けた思いについての後編。
柔道時代も認めてもらえるまで時間がかかった
思い起こせば、柔道の恩師も学生時代の頑張りを認めてくれなかった期間もありました。
「ここで出し切れないなら、くだらない努力なんて辞めてしまえ」
柔道の先生からずいぶん、言われたものです。
その練習量は4年間続けるだけでなく、卒業してタイトルを取り、引退するまで変えませんでした。勝てば勝つほど増えていくノルマ。僕はコーチをつけないので、自分で自分のトレーニングメニューを増やすんです。
増やして勝つと、それは固定のメニューになる。地獄でした。アホみたいですよね。「当たり前に練習だけして、当たり前に勝ちたいなあ」と、よく思ったものです。
学生たちに教え そして共に練習する
学生に柔道を教えていたら、クインテットの誘いが来ました。
監督にお願いしました。学生にもお願いしました。「練習相手をしてくれ」と。
それから毎週木曜日は柔道場へアドバイスをしに行き、土曜日は店にグラップリングの練習に来てもらう。そんな関係になりました。
「せっかくだからさ、いつかアマチュアクインテットが再開されたら一緒に出ようぜ」
そんな話をしています。彼らが僕を応援してくれているかは分からないけど、毎日練習してるだけあって、彼らは既に僕といい勝負です。
強行軍で練習遠征
木曜日は多少やってみせて動くけれど、やっていることはあくまでアドバイス。グラップリングの練習にはならないので、そのまま格闘技ジムへ。そこで自分の汗を流す。これに加えて、試合が近づいて地元の練習と試合がひんぱんにある地域へ向かい、ガチガチに経験を積んでいる選手が集まる道場に行きます。
そこが神奈川。熊本から1泊で行きます。今回は3週連続で行って帰ってきたところです。行くたびに課題が見つかり、地元で克服したような気でまた行く。習ったことをうれしそうに地元でやると、ジムの先生は知っていて「ここで習えたじゃん」となったりします。
ただ、スパーリングの中で気になった点が地元では見つけられなかったものなので、行って帰ってきて復習して、この歳になって成長してる気になっています。
戦うきっかけをつくってくれた原点
忘れてはいけない。神奈川には、僕の所属ジム「アラバンカ」もあります。強行軍で練習に行っているジムと練習時間が重なるので、神奈川に行った時は必ず夜中にアラバンカに帰ってきてそこで寝ます。
僕のスタートライン。マットの上で寝る。寝技ならまだしも、眠ってみると起きたら身体が痛いんです。でも、誰もいないジムでも、1人そこで弁当を食べて寝ているだけで初心に帰れるのです。
QUINTETは自分にとってのオリンピック
アラバンカの先生は「うちの練習に出なさい」と言います。「激しいスパーリングより基本を習いに来なさい」。
柔道の指導をする中で最も大切にする部分は基本。先生の言うことはとてもよく分かるのだけど、試合直前の練習は微調整の差ですからわがまましています。
なんなら、「夜に帰ってジムで寝てるから、何時でもいいから相手してくれ!」という気持ちで寝てるところも大であります。
アラバンカからいつかそんなクレイジーな選手が出てきますように願い、僕はジムで寝ています。
道着もグラップリングの準備も、いつもしております。競技に対しての温度差も好き。生涯スポーツとしてアラバンカに生きていきたいです。
最後に僕の不在を懸命に守ってくれているスタッフのおかげで、いい経験ができてます。
1泊の理由。「俺の風呂は俺が守る」。
この全てが僕にとってのオリンピックだ!
応援ありがとう、みなさん。
(内柴正人)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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