「人間は五感からの情報により次の行動を決める。この決断が早ければ早いほど人より有意に立つことができる」
日本レスリング界発展の功労者、花原勉の言葉だ。
大学入学時に柔道からレスリングに転向。
そして24歳での東京五輪での金メダル獲得。
この短期間での成長を支えたのは、圧倒的な練習量と「科学の知識」だった。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
姿三四郎に憧れた少年時代 しかし…
花原は姿三四郎に憧れ、高校時代まで柔道部だった。
しかし、当時の柔道は無差別級しかなく、身長1メートル60と小柄な体格の花原にとって世界の壁はあまりにも高すぎた。
「このままでは姿三四郎にはなれない」ーー。
そう悟った花原は,柔道と似た格闘技で体重別の階級制があるレスリング競技なら自分にも活躍する場があるのではないかと考え、競技転向を決意。日体大に進学する。
経験不足は「科学」でカバーする
柔道とレスリングの違いは、着衣を摑むなど,柔道で言えば組手ができないことであった。スピードの速さが柔道とは違い,相手を摑まえることができず,自分より小さな相手にも勝てなかった。
1 年以上も悩み続けたその答えは「解剖生理学」の中にあった。
首、脇,肘,手首,腰,股関節,膝,足首,この 8 つの関節を支点にして,相手を崩したり技を掛けたりすることができることがわかった。
独学でレスリングの基本を学んできた花原は自信をつけ,レスリングを楽しむようになる。そして大学2年(1960年)の 12 月,柔道の投げ技を生かし、全日本選手権(グレコローマン・フライ級)で最初の金メダルを獲得した。
悲願達成
花原は24歳で1964年東京五輪に挑み、金メダルを獲得した。グレコローマンスタイルではアジア初のフライ級王者だった。
決勝ではブルガリア代表のケレゾフと対戦。1点リードで迎えた試合終盤、激しい攻防から相手を抱えて投げ、バックに回って加点した。優勝の瞬間場内は拍手喝采。トルコ人コーチのドガン氏に飛びつき、関係者から高々と胴上げされた。
この瞬間、花原は「レスリング界の姿三四郎」になったのだ。
「八田イズム」×「科学」で後進育成に注力
連覇を目指したメキシコシティー五輪の直前、花原を悪夢が襲う。
右膝のじん帯を損傷。
これを機に花原は指導者に転向。選手時代に読み込んだ解剖生理学に由来する科学的トレーニング、選手に必要な栄養学の知識を日体大で伝授した。
その後、88年ソウル五輪では教科院長を務め、選手時代の恩師八田一朗氏と選手強化に励んだ。スパルタ教育の「八田イズム」に花原ならではの「科学」を加えた指導で「500日合宿」を敢行、当時は不安視された代表陣を金2、銀2、入賞6の成績まで押し上げた。
(mimiyori編集部)