2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は「チーム内柴の初陣」前編。2021年12月、練習仲間とともに九州国際柔術選手権に出場するまでを振り返った。
「チーム内柴」出陣
2021年の年末、みんなで試合に出てきました。僕の職場に勝手に作った〝つる乃湯道場〟。目的は内柴正人のための練習会。そんなわがままで始まった練習会も、固定で練習に来てくれる柔術ジムのみなさん。そして、地元の大学柔道部の男の子(弟子と言っていますが、柔術で僕より強くなっちゃいました)。
あとは高校生、社会人が1人ずつここで始めた方々がいます。他県から毎週来てくれる高校生もいます。
練習場所の確保に苦労
はじめは(2020年10月の)格闘技大会「クインテット」に僕がお誘いいただいて、熊本の柔術の先生とその仲間たち数人で何とかやっていたんです。みんなアラフィフ。僕、アラフォー。
本当にどうにか練習をやりくりして、初めての「クインテット」に参加できた形でした。あれから1年と少し経つ。次の試合こそ勝ちたいよ。
そんな思いで近くの高校の先生に練習をお願いしても、やんわり拒絶される。知らない仲ではないけれど、その先生のことを正直ちゃんと知らないから期待してもいなかった。まず、近くの高校は無理。
人間と組み合いたい。相手が強かろうが弱かろうが関係なく。組み合いたい。
中学生でもいい、誰でもいいから手か足か何か打ち込みになるものが欲しい。だって試合は組み合う競技なんですもの。
県内の柔道関係は元より期待はしていなくて、お願いして断られてショックを受ける。絵に描いたようにショックを受ける。そんな中、格闘技関係の方々に紹介を受け、練習への参加を許してもらったところが一つありました。
職場の片隅にマットを敷いた簡易道場
そこは熊本市内にあり、僕の住む地域から1時間かかる。休みの日にしか行けなかったんです。それでも週1の練習確保。喜んでいました。
あとはラントレ、筋トレ――組み合いたい。
そこで作った練習場が店のロビーをお借りした〝つる乃湯道場〟。ただ、マット敷いただけ。それでも、はじめは独りでコロコロ転がるしかなく。困っていました。柔術ジムの先生は足繁く通ってくれて、おじさん2人でイチャイチャしていました。
今は月日が経ち、ここで柔術を始めた人もいて、数は少ないけれど教える相手がいて、受けてくれる人がいて、僕の全力を跳ね返す弟子がいます。
今の自分を見てくれる人の縁でチーム結成
「みんなでさ、試合に出よう」
結果、出場したのは3人。僕、弟子、ここで始めたビギナーさん。あと、2人ほど柔道の子がエントリーしていたけれど、1人は柔道の試合前のケガで欠場。もう1人は柔道の練習中にケガしたと言い張って欠場(笑)。
全体としては、遊びの中で技術の向上を目指しているだけ。否、基本は僕の練習相手で集まっているのだから、そういう話も笑い話。
熊本で働くと決めて、生きているだけでつながった人との縁でチームというほどのものではないけれど、大会に参加できました。
誤解を乗り越える日々
感慨深いものです。
仕事でやらなければいけない作業をしていれば、「マネジャーは好きなことしかしてない」。
誰でもできる雑用は基本、僕の仕事。
やっとのことでトレーニングをすれば、「遊んでる」と言われた期間があり、怒る気力もなく、涙を流した日もありました。
(内柴正人=この項目つづく)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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