2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は「チーム内柴の初陣」後編。
2021年12月、練習仲間とともに九州国際柔術選手権に出場。競技と両立している仕事への考え方、そして新しくできた人の輪について。
仕事にマニュアルなし
僕がマネジャーをする職場にマニュアルはありません。気がついたらやってくれればいい。嫌ならやらんくてもいい。
嫌ならやらなくていい、というのは大人のそれとは違い、「やりたくない」「できない」の場合。
苦手なら得意なことを頑張って欲しい。できれば、できる人に習ってやってくれればうれしいけれど、毛嫌いするほどのことは本当にしないでください。
理由は長く続かないから。
また、マニュアルを作ればそれしかやらない。マニュアルがあればそれだけやっていればいいだけの話。新形コロナウイルス感染拡大の影響で売上が少ない中、どうやって時代に応じた仕事をするか。
少人数でいろんなことをやれば、何とか持ちこたえるはず。そう思って、スタッフに頑張ってもらっています。
マニュアル以外の仕事に気づくこと
ゴミを拾う。
誰がやってもいいのに、昔は僕の仕事として誰もが知らんぷりしていました。
今はね、みんな拾う。たぶん。
人によって仕事の流れも違うから、なるたけ好きにさせてみて、それで店が回りつつ、お客さんを受け入れる準備ができればそれでいいと思うのです。
そう言って、みんな時間を惜しみながら頑張っています。
かつ、僕も作業したりシフトの空いた穴を自分で入ったり、スタッフにゴマをすりに行ったりしながら、店が暇になる時間帯に練習仲間に連絡して〝つる乃湯道場〟で汗をかくのです。
職住近接~覚悟は決めている
うどん屋さんをやりたい人が投資家に投資をお願いした。2階が住居で1階が店。投資家は「家を建てて欲しいだけ」と話は成立しなかったそう。詳しい話は分からない。
でも、「これは職場に家を構えるという覚悟だから本当はいいこと」なんて言った方がいたそうです。
僕、まさにそう。僕は子どもの頃から寮生活。どこへ行っても家と道場は近いもの。そこへ住むものとして考えています。
ここでもそう。社宅があり、一歩玄関を出ればもう仕事。仕事への覚悟は決まっているのです。
ノー・トレーニング ノー・ライフ
これがこのままで終わらない僕。生きてるだけでトレーニングスペース。走るコース。練習仲間。つる乃湯道場。
立派じゃないけど作っちゃった環境。
エントリーして試合が近づいてきた時に気づいた。
昨年はこんな空気はみじんも許してもらえなかったこと。
練習仲間はお互いに時間を作って、2~3人でイチャイチャ。ああだろうか、こうだろうか。みなさんの方が柔術歴が長いので教えてもらうばかり。
新しくできた人の輪の中で
そして、仕事。
今はね、もちろん柔術先生のジムの皆さんも大会に参加されていました。最近通い始めた名門「カルペディエム久留米」のみなさんも出ておられました。
また、数年前に柔術を始めたばかりの頃に受け入れてもらっていた柔術ジム「パラエストラ那珂川」の選手、先生もいらっしゃって、皆さんに声をかけてもらえました。
〝つる乃湯道場〟の選手は、僕の柔術のお師匠さんである山田重孝先生のアラバンカの名前をもらってエントリー。
試合の結果もとてもよく。勉強するところもたくさんあったけれど、一番は僕の仲間たち、お世話になっている柔術の皆さんと一緒に大会で試合ができたことがうれしいニュースでした。
(内柴正人=この項おわり)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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