【連載「生きる理由」⑥】柔道金メダリスト・内柴正人氏が五輪への道を振り返る 「人生最大の絶望」とは

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2020年秋の格闘技イベント「QUINTET」に向けて練習していた頃の内柴正人氏

(撮影:丸井 乙生)

2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーとして勤務している。

 

17年の出所後は数年間の模索期間を経て18年からキルギス共和国の柔道総監督に。19年秋に帰国した後は、柔術と柔道の練習をしながら社会人として働き始めた。

 

2度制覇したオリンピックについて、本人の記憶は薄れている。

彼だけが体験した五輪への歩みとはどのようなものだったのか。

 

内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、前回は野村忠宏氏に出会ったことで同じ階級で世界を獲ることを目指した話。今回は「選手として分岐点となった階級変更」について。

 

 

金メダル獲得の04年アテネ五輪当日に”完敗”

結果として僕は66キロ級に階級を変えました。

 

僕の(2004年アテネ)オリンピック当日、

ウォーミングアップの一番最後に野村忠宏先輩が来てくれて、道着も着てくれて乱取りを相手してくれました。

1分くらいでぶん投げられた時は「あー、俺、超よわーい」って笑ってしまいました。

「よし、これで今日は1回負けた。頑張るぞ!」

負けて悔しくない人に一番大事な日、1発目に負けた。

しかも、自分が目指してる柔道で!

 

そうなったら、オリンピックの試合はもう楽勝でした。

本当にね。ボンボン投げて、5試合で試合時間のトータル10分くらい。

すべてに感謝できました。

 

人ってね、僕ってね、かも。

夢がかなうと、感謝するものなんです。僕が本当に人に感謝できるようになったのは、チャンピオンになってからかもしれない。

 

それまで、何でも我慢して生きてきてますから。僕はクリスマスも誕生日祝いも、人が普通にやる行事をやったことがありません。この前、初めて節分の豆まきを教わりました。

 

世の中のすべてが憎らしい日々ばかりなんです。自分の才能を恨むことも多い。

本当にです。 

 

階級変更前は減量苦に直面

その66キロ級に転向する前のこと。

オリンピックでチャンピオンになるという目標のきっかけをくれた野村忠宏さんと試合では2勝1敗と勝ち越していましたが、誰に負けたでもなく最終選考会で減量できずに失格。

減量できないで失格ですからね。負けた理由は自分にしかなく、それこそ絶望でもあり、もともと中学の頃から65キロ級でも減量してましたから、無理な話。

普通は勝てるだろう階級を選んで勝負するのだろうけど、野村忠宏さんがいない階級で勝負したところで追い抜けないわけで60キロ級でのチャンピオンを目指したのですが、7年目にして限界が来てしまいました。

 

野村忠宏さんがいる階級でオリンピックチャンピオンになるという夢は、25歳の4月、2度の体重オーバーにより失格。終了。

 

斉藤仁先生からまず、「俺もお前を使い過ぎた」と一言あり。

「お前のことだからこの先、60キロ級にこだわって何度も日本一になると思う。でもな、使えないんだよ。使いたくてももう使えないんだよ」

と、言われて僕は柔道人生を一時諦めました。

 

「もう、絶対に柔道やめた」と決めて、当時の奥さんのお母さんからサラリーマンをするためのバッグを買ってもらって、スーツ買って……って準備もして。

ぽっかり空いた気持ちで2カ月くらい何もせずに過ごしていました。 

 

人生最大の絶望は60キロ級を諦めた時だった

日が昇り、日が沈む。

ずっと眺めてました。

何日も。

当時、旭化成に柔道選手として勤務していたけれど、練習に行ってるフリして会社にも行かずに何もせず。

 

2カ月間。

全日本の強化選手登録も抹消されてるから行かなくていい。

 

この日の絶望は今、42年生きてますけど、今思い出しても苦しいくらい悔しいです。人生で一番、苦しかったですね。

 

だからかな。

最近というここ数年、柔道をできていないんですけど、周りが悔しい思いを僕に味わわせようと、意地悪もよくされるのですが、特に何とも思わないんです。

いつも遅れて「ああ、バカにされてたのか」「ああ、意地悪してたのか」と思うくらい。

 

25歳の頃から感情は死んでますから。すべて幸せなのです。

10年くらい柔道のブランクがあるから柔道をやりたいって思うことはあるけれど、柔術の試合に出るようになったら柔道を使わないし、柔術は柔術の練習をしなきゃならないです。

グラップリングは道着を着ての寝技はいい練習に感じるけれど、柔道の立ち技はただのフィジカルトレーニングにしかならないことに気がついてしまってやる気にならない。

そして、今の仕事が楽しくて柔術、グラップリングの練習どころか健康のための運動すらできてない。

 

何やってもその種目、その職業の空間の中に入ることが出来たならば、僕はどのような事柄でも専門家になれる気がしている今日この頃、という感覚を子どもの頃から持っています。

 

今回もこのようなざっくりとした内容にしました。

僕は目の前にないことを忘れる性格で、例えばオリンピックのことでも今はど忘れしてます。

ここにモノを書く機会をもらったから、少しずつ思い出してざっくり書いて思い出して、あんなことやこんなこと、いいことは全部書き残せたらいいと思っています。

 

ここまでは、夢を本気で目指せるきっかけとなった事柄。

60キロ級を諦めた理由は誰に負けたではなく、結局自分に負けて減量できなかったという話。

それと正直、タバコは吸ってますが、タバコを理由に息が上がるなんてそんな練習してきてない、という話でした。

 

さて、今日は奥さんが朝のフロントに立ってくれて、僕は息子と2人、社宅で寝ていたので働いてきます。

内柴正人でした。

 (この項おわり)

 

うちしば・まさと

1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に60キロ級で全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。 

 

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