2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
17年9月の出所から現在の仕事に就くまでの数年間、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、「トレーニングとは何か」について前編。
多忙で運動不足に
ここ最近、運動不足で「練習したい」という気持ちにかられながらも、いつも通りの生活を繰り返しています。
練習したい。
練習したい。
Twitterでそうつぶやくと、ここ数年、親交のある柔術の先生とそのチームメイトが2人で職場まで来てくれました。もう感謝です。
僕の働くお風呂屋さんには小さなジムがある。スクワットラック、シャフト、そして柔術マット。ここができた時に、マッサージルームとして作られたスペースを片付けて、ただ置いただけですが、人さえ来てくれればスパーリングができるくらいは広さがあります。
ここに来てからずっと練習不足ではあるものの、それは「やりたいことは、仕事がしっかりできてからやること」という社長との約束もあり、なかなかトレーニングができないのです。
誰もが全力でやるものだと思っていた
柔道や柔術、そしてトレーニング。みなさんは、これらのものをどう考えているのでしょうか。
僕は長い人生の中で、トレーニングを仕事としてやる以外にやる理由がなかった。そして、全ての人がそれらを将来の仕事としようとしてトレーニングをしていると信じていた時期もありました。
みんなが「それなりでいい」と思ってやっているとは考えたことがなく、サボる人、先生の顔色をうかがいながら練習をする人たちには「なぜサボろうとするのだろう」。とても疑問だった。例えば、「日本一」「世界一」と夢や目標を掲げている人でもサボる。
なぜ?
やっと、「みんな、それなりでいいと考えているのだ!」と気付けたのが大学を卒業する頃でした。
遅過ぎますよね。僕は自分の仕事に夢中だったのです。
目標から逆算して自主練習
チームの練習は自分のレベルを上げるには物足らず、その後に自分のトレーニングメニューを持っていました。その内容も1日の中で終わるほどの量ではなく。メニューを曜日ごとに分け、全体練習についてもチームの練習内容の中でどの技術を反復するか、どのタイプの相手にどの技術で攻め込むか、無駄にスケジュールを作っていました。
そして、それをやり切るうちにメニューの途中で習得できないものがあればスケジュールを作り直す。全然、先に進まない。
気がつくと、高校でも大学でもチーム内でよくある上下関係の外側にいつもいました。
まさかの練習禁止
大学2年の頃。当時、斉藤仁先生がチームワークを良くするために、学生たちを困難の渦にぐるぐる巻きにしてた時。
全員の気持ちが一つの目標に向かって頑張れるようにならない限り、練習禁止というお触れが出ました。
全体の練習が中止になっていた時も意味が分からず、独りで道場で走っていました。それを見た斉藤先生はめっちゃ怒っていたけれど、僕も夢があって1日も休みたくない。自分で好きで追い込んでるのだから、それの何が悪いのか?
そんな顔をしていたから、僕ではなくキャプテンが後に怒られていたこともありました。それでも、キャプテンは僕に当たることはせず、「内柴は試合前だったから許した」と先生に言ってくれていました。
(つづく)
うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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