17年の出所後は数年間の模索期間を経て18年からキルギス共和国の柔道総監督に。19年秋に帰国した後は、柔術と柔道の練習をしながら社会人として働き始めた。
2度制覇したオリンピックについて、本人の記憶は薄れている。彼だけが体験した五輪への歩みとはどのようなものだったのか。
内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、「オリンピックで優勝すると決めた日」について。
- メダル獲得前夜~60キロ級にこだわった理由
- インターハイ優勝で柔道をやめるとごねた
- あの3連覇王者を追い抜くと決めた
- 「組む柔道」を我慢でやり続ける
- 投げられ続けて「ジュニア最弱」と呼ばれた
- 五輪以外は負ける日々~「天才」ではなかった
メダル獲得前夜~60キロ級にこだわった理由
僕のタイトルは66キロ級で獲ったものです。その昔は60キロ級でした。
途中で66キロ級を選んだ理由は1つ。オリンピックで勝つのが簡単だと思ったからです。
それまで中学でも高校でも、計算通り勝ってきました。学生時代の計算と比べるのは浅はかではありますが、後で説明するように、オリンピックで勝つのは簡単です。
でも、本物のチャンピオンになりたかった僕はどの階級で勝つかではなく、「誰がいる階級で勝つか」がポイントでした。だから、最初は60キロ級だったのです。
インターハイ優勝で柔道をやめるとごねた
2回目の日本一になった、高校3年生のインターハイ。
3年ぶりの日本一。当然のことながらお父さんに「もう柔道はやめる」と言い。「勘弁してよ。2回日本一になったからもういいじゃん」と言い。
「進学しない」とごねている時期に、全日本の合宿に呼ばれました。嫌々でも、呼ばれたら断れない日本人体質な僕はもちろん参加。日本一ですから、まあ当時は自信もあるのです。
でも、高校日本一なだけなので、今考えると恥ずかしいですね。たかだか高校生の大会で日本一だからと自信満々なのですから。
その合宿で出会ったのが野村忠宏さんでした。ちょうど1996年シドニーオリンピックで野村先輩が優勝した後かな。真面目に合宿に来ていたのです。チャンピオンって普通……来ないでしょ。
先輩がたはタイトルを獲った直後でも、全日本合宿どころか国内の小さな大会も出ていた記憶があります。僕でもおじさん世代だけど、僕らの時代はタイトルを持ってる選手は試合を選んでいました。僕は選ばせてもらえず、タイトルを持ってるのに「内柴、行け!」と、いい扱いはされなかったのだけど。
あの3連覇王者を追い抜くと決めた
そう、その高校生の日本一も世界チャンピオンも全部ごちゃ混ぜでやる合宿でのことです。高校3年生の僕は自信満々でした。
「野村忠宏、来てるじゃん」
やっつけてみよう。と、お願いしたらもう、ボッコボコのころんころんです。
つかまえたらシュッと中にもぐり込んでくるし、力で押さえ付けたら、その力を捻転させてひん投げられる。引き付けたら入られる。押し込んだら縦回転で宙を舞ってビターン。
恥ずかしくなりました。自分が中学、高校で身につけた柔道というものは、柔道ではなかったのか!? ほかの何かだったのか?
僕の中の「日本一になったらやめる病」はこの日の練習で治りました。
もうね、やる。この人を追い抜く。この人の階級でオリンピックチャンピオンになる。
この人が現役としてめちゃ強い時につぶして、日本代表を勝ち取った上でオリンピックチャンピオンになる。そう決めました。 だから僕は60キロ級で勝負していたのです。
「組む柔道」を我慢でやり続ける
僕、根性論は嫌い。勝つために何かを我慢しているとして、それが勝負際で本当に関係ないじゃんと思ったら、我慢しないんです。勝負と関係ないから。それが僕にとってはタバコとコーヒーでした。
逆に、関係してると気づけた時は意地でも我慢します。例えば、柔道は組み合う競技なのに、ほとんどの柔道選手は相手に組まさないように切って切って、自分だけ組んで勝とうとします。
ブチブチ切って“攻めたふり”柔道。僕もできますが、一番は相手としっかり組んで(組み合うと狭いのです)勝負する。この組む柔道を習得するのに、めちゃくちゃ時間を要するのです。
今の全日本はどんなスタイルでも勝てていれば日本代表になれる。僕の頃は、というか、僕にだけかな。斉藤仁先生はそのしっかり組んだ柔道をやるように教えていました。抱きついたり、片手で技をかけたりしたなら、相手を投げとしても怒られる。
ポイントを取って逃げるなら、「一生使わない」とののしられる。性格的にポイントを取ってしのぐようなことはしないから問題ないのですが、斉藤先生の理想にかなわない勝負をする先輩がたは、選考のギリギリで外されていました。
そういうところを見ていたので、大学生になってから7年くらいはその柔道を練習していました。
投げられ続けて「ジュニア最弱」と呼ばれた
全日本合宿に行っても、自分より明らかに弱い同学年の人にライバルだと思われていても、当時のナショナルのトップ4人としか練習をしませんでした。
全然かなわなくてボンボン投げられて、コーチには笑いながら「ジュニア最弱」だとか、あだ名をつけられたり、斉藤仁先生には
「てめえ、簡単に投げられるならお願いするな!」
何度も怒られました。
でも、組み合わないで自分だけが技を掛けられる空間で勝負して何の練習になるのやら。しっかり組んでぶん投げられるくらいの感覚で1つでも多く技をかける。
練習相手はオリンピックメダリストからギリギリ代表になれないレベルのアスリート。
そこに食い込むためには、その人たちと練習する方が一番早い。よって、6年間くらいはたくさん人が集まる全日本合宿でも、練習相手は4人くらいに絞っていました。
五輪以外は負ける日々~「天才」ではなかった
勝負に直結したものならば、何でも我慢。むしろ、勝負に直結した何かを探すことが得意だったから、オリンピックタイトルだけ2回も勝てたのでしょう。僕がもし、天才だったならいろんなタイトルを持ってるはずです。
世界選手権は最高2位。アジア大会3位。アジア選手権も3位以内に入ったことがない。
オリンピックチャンピオンなら当たり前に持ってるタイトルでも、僕は獲れませんでした。
正直な話、オリンピック以外には本気になれなかったのです。本当に才能あふれるならば、簡単に獲れるタイトルをたくさん獲って、段階的にオリンピックを最後に獲る。僕はどうやってもそんなの無理だから、オリンピックだけを獲る。
もちろん、僕も段階的にタイトルを獲ろうと志していました。それが獲れるなら簡単なのですが、何回も途中で負ける。もー、大変。
その中で、この柔道を習得するにはたくさん負けたり、練習では投げられたりするんだろうなあ、とも思っていました。
そのおかげで斉藤仁先生の柔道の方針にも合わせられて、欲しいタイトルだけ2つも獲れるなんて思ってもいなかったけれど、結果的に、野村先輩と出会った1日で僕の今までの柔道スタイルは生まれたと思っています。
(つづく=内柴 正人)
うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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