【五輪金メダリスト連載】「ヤマシタ跳び」の生みの親 白井健三の先輩~1964年東京五輪体操・山下治廣

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

「元祖ヤマシタ跳び」には「新ヤマシタ跳び」で対抗だ。 

1964年東京五輪、体操跳馬の山下治廣は“秘策”で金メダルを獲得した。62年の世界選手権でお披露目していた「元祖ヤマシタ跳び」を海外選手がまねしてくることを見込み、ひねりを加えていたのだ。

五輪開幕の半年前に完成した「新ヤマシタ跳び」は、まるで正義のヒーローが舞い降りるかのような美しさで、世界を圧倒した。

 

金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

 

 

 

ウルトラC「ヤマシタ跳び」の元祖

平成の「ひねり王子」が表舞台を去った。 

2016年リオ五輪金メダリストで、世界の体操界を席巻した「ひねり王子」こと白井健三が引退を発表した。自身の名前から「シライ〇〇」と名付けた新技を次々成功させ、世界にその名を知らしめた。あの輝く笑顔にどれほどの人が希望をもらっただろうか。 

1964年東京五輪にも、白井のシライと同じく、自身の名を冠した大技「ヤマシタ跳び」を武器に世界と戦う男がいた。白井にとっては日体大の先輩にもあたる、跳馬の山下治廣だ。

 

踏み切り板から跳馬まで2メートルの神話字

早熟型の白井と異なり、山下は大器晩成型だった。

才能が開花したのは日本体育大学卒業後、助手として大学に残っていた時のこと。

体育館内の管理室を根城に、1日7時間の練習をこなす中、1人の学生の跳躍に目を奪われた。空中で高く浮き上がり、腰を曲げながら体を屈伸させて跳馬を跳び越したのだ。

当時、最も高度な技とされていたのは「前方倒立回転跳び」。それとは異なる新しい動きに魅了された山下は、自らも試すことにした。

 

まねするだけにはとどまらない。なんと踏み切り板と跳馬の距離を、従来の50センチから2メートルまで離したという。学生の動きにヒントを得て、山下が美しさと跳躍のバランスを研究した結果、行き着いた答え。その時点で正真正銘・山下独自の技になっていた。

 

25歳で迎えた東京五輪~やっぱり元祖は最強!

こうして誕生した「元祖ヤマシタ跳び」を、1962年の世界選手権で初披露し、準優勝を果たす。自分の名前を冠した技を一つ生み出すだけでも偉業なのだが、山下の探究心は留まることを知らず。64年の東京五輪を見据え、「元祖ヤマシタ跳び」にひねりを加えた「新ヤマシタ跳び」に取り組んだのだ。

迎えた64年10月23日、種目別・跳馬決勝。1回目は「元祖ヤマシタ跳び」で9.90の高得点、2回目は失敗するも、3回目の「新ヤマシタ跳び」で9.80を叩き出し、金メダルを確実にした。 

その後も68年まで現役を続け、引退後は日体大で塚原光男・監物永三らをメダリストに育て上げた。

そんな山下のDNAを引き継ぐ白井は今後指導者の道を歩むという。「白井コーチ」のこれからの活躍に期待が高まっている。

 (mimiyori編集部)

 

 

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